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#19 唇と誘惑

水曜日、彩世はヒルトン東京の1208号室のドアの前に居た。左腕につけた時計を見ると5時を回ったところだった。彩世はドアチャイムを押す。部屋の中から物音がして、こちらにやってくる足音と共にドアが開いた。
「入れよ」
彩世は部屋に入った。諭は彩世の右手に持っている紙袋に気づき、「それは何だ?」と聞いた。
「これは先週、大阪に行ったんで、あんたへお土産」
「ありがと。ホストクラブで出張とか、あるんだな」と言い、諭は紙袋を彩世から受け取った。
「冬に新しい店を出店するから、大阪のホストクラブの状況をリサーチしてきたんだよ。流石に店の中には入れないけど」
「和菓子?開けていいか?」
「いいよ」
諭は包装紙を開けて、綺麗に折りたたみ、箱を開けた。
「ふくふくふ?」
「そのお菓子、副が繰り返しいつまでも訪れますように…っていう意味があるらしい」
「へぇ、縁起が良いな。一緒に食べるか?」
「ああ」
「お茶がないけど…これでもいいか?」
諭は冷蔵庫から白ワインのボトルを取り出して、彩世に見せた。
「ああ」
諭はフロントに電話をかけ、ワインオープナーとワイングラスを2つ頼んだ。しばらくすると、ドアチャイムの音がして、ホテルの従業員がワインオープナーとグラスを持って現れた。諭がそれを受け取り、カフェテーブルに置いた。彩世はワインオープナーで白ワインを開け、2つのグラスに注いだ。二人はそれぞれにグラスを持って、合わせた。
「今日の出会いに乾杯」と諭が言った。
「それ…いつまでやる気だよ」
彩世は照れくさそうな顔をして、グラスを傾け、白ワインを飲む。諭はお菓子の包装を開けた。
「萩の月みたいだな」と言い、少しかじる。
「餡は入っていないんだな。軽くて美味しい」
「俺にもちょうだい」
「小豆と抹茶があるけど」
「じゃあ、抹茶で」
諭は抹茶味のふくふくふを彩世に手渡した。彩世は包みを開け、口に入れる。
「うん。白ワインに合うな」
彩世は白ワインを飲み干し、グラスに注ぐ。
「ペース早いな。すぐに酔ってしまうぞ」
「大丈夫。飲み慣れてるから」
「…仕事は忙しいのか?」
「まぁ、売れっ子なんで、それなりにね」
「お前は、どういう人が好きなんだ?」
「う~ん…そうだなぁ、ボトルを入れて貰うか、お金を貰えれば、デートに行くし、前はセックスもしてたからなぁ。もちろん、可愛い子の方がテンションは上がるけどな」
「人を好きになったことはないのか?」
「好きっていう感情はあるよ。でも、普通の人とは違うと思う」
「どんな風に違うんだ?」
「う~ん、例えば、子犬を見てどう思う?」
「かわいい」
「パンダの赤ちゃんは?」
「かわいい」
「子猫は?」
「かわいい…って何が言いたいんだ?」
「みんな、可愛いよな。俺にとっては、どれも可愛いけど、一番ってのがない」
「そうか。じゃあ、その女の子が他の男と寝てても何とも思わないんだな」
「そういうものだと思っているからな」
「頭で分かっても、心が伴わないこともあるだろ?」
諭にそう言われ、彩世はゲイバーで諭を見た時のことを思い出し、はっとした。
「なんだ?最近、心当たりのある出来事でもあったか?」
「何もないよ。それよりも、あんたのことを聞かせてよ」
「俺の話は面白くないと思うけど」
「…あの日、お店を出てった後、どうしたんだ?」
諭はグラスを傾けてシャンパンを飲み、残りのお菓子を口に入れた。
「そうだな。別のお店に行ったけど、好みの相手が居なくて、そのまま家に帰ったよ」
「特定の相手はいないのか?」
「3年前くらいに別れてからは、いないな」
「あんたなら、すぐに相手が見つかりそうだけど」
「仕事が忙しくて、特定の相手を見つけても続けるのが難しいからな。したいと思った時に、お店に行って気が合いそうなヤツを見つける」
「俺が相手になってやろうか?」
諭はくすくすと笑いだす。
「いいのか?お金で繋がる関係は、嫌だったんだろ?」
「そうだな。でも、あんただったら、良いよ」と彩世は微笑みながら答えた。
諭は、笑うのを止めて真顔になった。
「彩世…お前は、何も分かっていない」
「何が?」
「お金を払って繋がる肉体関係と心が通じ合う肉体関係は、別物だ」
「両方とも、結果は同じだろ」
彩世は諭を見つめる。
「そうだな。お前の言う通り、結果は同じだ。でも、プロセスは違う」
諭は、彩世の頬に触れた。
「試してみたいと思わないか?」
諭に見つめられ、彩世は動けない。
「…こないだだって……十分に良かった」と彩世は呟いた。
「ふふっ…そうか」
諭は、椅子から身を乗り出して彩世に深く口付けた。彩世は、口の中に小豆の味が広がるのを感じた。諭の舌が彩世の舌をなぞると、脳内に電流が流れたように痺れを感じる。彩世は、咄嗟に諭の腕を掴んだ。
「どうした?」と諭が声をかけた。
「…あんた、酷いな」と彩世は言った。
「そうか?たった一言、言えば良いだけだろ?そこまでして、俺を拒絶する理由はなんだ?」
彩世は、諭に言われたことを考える。諭が魅力的であることは分かっており、彩世自身も抱きたいと思っていた。ただ、それ以上に諭の思い通りになることが嫌だった。彩世が黙っていると、諭は冷たい声音で言った。
「だったら、お前の体に聞いてやる」
諭は椅子から立ち上がり、彩世を椅子に押し付けて、愛撫し始めた。
「…や、めろ。んっ…」
彩世は、諭を振り解こうとするが、振りほどけない。着ていたシャツを脱がされ、たくましい胸が露わになる。諭は、首筋や鎖骨、胸を舌で舐めまわす。彩世は、こらえきれず、声を漏らした。諭は、彩世の顎にキスをする。
「…本気で抵抗する気なんてないだろ?お前は、俺を求めている」
「…そ…んなこと…ない…」と彩世は切れ切れに言った。自分の言葉と裏腹に体が熱を帯びているのが分かる。彩世は、自分自身の自制心の無さが嫌になった。諭は、構わずに彩世の体中にキスを落とす。彩世は、目をつむり、唇を噛んで耐える。諭の手が彩世の頬を撫でる。彩世は目を開けると、諭がぼやけて見えた。
「こないだの、手付金があるだろ。それで俺があんたの要望通りに抱いてやる」と彩世は言った。
「…分かってないな。俺がお前を気持ちよくしてやりたいんだよ。心も体も」
彩世は、諭の告白とも受け取れるような言葉を聞き、諭を見つめた。熱っぽい言葉の割に諭の表情は、飄々としている。彩世は、視線を外して言った。
「…あんたが好きなようにすればいい」
諭は、にっこりと微笑み「遠慮なく、そうさせてもらう」と言い、彩世の耳を甘噛みする。彩世は、諭から与えられる甘い刺激に声をあげた。もはや、何も考えられなかった。


 どのくらい経ったのか、彩世はベッドの中で目を覚ました。目の前に諭の顔が見える。
「…起きたか」と諭に声を掛けられた。
「俺…」と彩世が声を出そうとするが、うまく言葉が出ない。喉の奥が張り付き、自分の声が掠れている。声を出し過ぎてしまったからかもしれない。
「しゃべらない方がいい」と諭が言った。諭の手が彩世の頭を撫でている。後頭部が柔らかく弾力のあるものに包まれている感触から、諭の膝の上に頭を載せていることが分かった。頭がぼーっとして、うまく思考が働かない。彩世は、諭の顔を見つめた。心なしか、いつもより優しく見える。体に与えられる刺激で心まで愛されているように勘違いをしてしまいそうだった。諭の顔越しにダウンライトの光が見えた。その光は、蛍の光のように見え、京都で剛と過ごした夜の記憶が思い起こされる。蛍の光に照らされた剛の顔が浮かび、口付けた時の唇の感触や温かさを思い出した。そして、「よく分かりません…」と言った剛の声。
 自分が欲しいと願ったものは、なかなか手に入らないのに自分が願わないものは、お金を出せば、手に入ることに矛盾を感じた。彩世は、体を起こし、近くに置いてあったシャツを掴んで、羽織った。
「あんなにかわいい声をたくさん上げていたのに、気に入らなかったか?」と諭が彩世に抱きつきながら言った。
「そうだな。あんたのその態度とか振舞とか、全部嫌いだな」
彩世は、諭の腕を払いのけて立ち上がり、ズボンを履く。
「ふふっ…随分と嫌われたものだな」
「…前に行ったよな?あんたが俺の感情を無視した行動をしたら、二度と会わないって」
「そうだな」
「だから、あんたとは、もう会わない」
彩世は、ジャケットを羽織り、カフェテーブルに置いてあったタバコとライター、携帯電話を持って部屋を出た。

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