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#30 獅子身中の虫

剛はカバンを持ち、諭と家を出て、地下にある駐車場に向かった。
「兄さんが運転してるところ、見たことないな」
「都内だと、なかなか運転する機会ないからな」
「そうだよね」
剛は諭の車の助手席に座り、シートベルトを締めた。諭は、カギを入れてエンジンをかけ、車を発進させた。
「その首にある赤い痕は…あいつにつけられたのか?」
「え?」
「首の左側に赤い痕が見えたけど」
剛は気まずそうに諭に返事を返す。
「…うん。シャツで隠れて見えないかと思ったけど、目立つ?」
「いや…よく見れば、なんかあるってくらいだな。俺は職業的に人の体は観察してしまうから気付くだけだと思う」
「だったら、良かった」
「あいつとうまくいっているのか?」
「……兄さんに言う必要ある?」
「………それもそうだな」
剛は、窓越しに街並みを眺めていた。
「剛。お前に大事な話がある」と諭は言った。
「突然、何?改まって」
剛は、諭の方を見た。諭の表情は、変わらず、前を見て運転を続けている。剛は、諭が話し出すのを待った。
「俺は、彩世のことを恋愛対象として見ている」
「…え?兄さん、彩世さんのこと、嫌いじゃなかった?」
諭の言葉に剛は、自分が聞き間違えたのではないかと思った。諭の表情は変わらない。
「ああ。嫌いだった」
「じゃあ…どうして?」
諭は剛の方を一瞬見た。その表情も声音も全く変化がなく。夕飯に何を食べたかを報告するような業務連絡みたいに剛は感じた。諭が冗談を言うタイプではないと、剛は理解していたが、揶揄われているのではないかと思った。
「あいつがどんな奴なのか、お前と付き合うのに相応しいのか、知りたくて何度か会った」
「それは二人で?」
「ああ」
「そうなんだ」
剛は彩世が自分に何も話してくれなかったことに対して、憤りを感じた。また、諭が剛に何も言わずに彩世と会っていたことに対しても腹が立った。
「何で今、話そうと思ったの?」
「お前に隠し事をしたくないと思ったからだ」
「そう。…兄さん、送ってもらわなくていいよ。どっかで止めてくれる?」
諭は剛の機微を感じ取り、「…わかった」と答えた。
諭は大通りに入ったところで路肩に車を停車させた。剛はシートベルトを外し、Yシャツのボタンを外し始めた。
「何をしてる?」と諭は剛を止めようとした。
剛は胸元が見える位置までボタンを外し、諭に自分の胸を見せた。車内は暗かったが、大通り沿いのお店の明かり越しに剛の胸に赤い痕があるのが見えた。
「それ……、あいつにされたのか?」
「そうだよ。俺、彩世さんにすごく愛されてるんだ。たとえ、兄さんが彩世さんを好きでも入り込む余地はないと思うよ」
「…他の人が見てるかもしれないからボタンを締めてくれるか?」
剛はYシャツのボタンを締め直すと、カバンを持ち、車から出て行く。剛は大通りを曲がって脇道に入り、しばらく歩くと、その場でしゃがみこんだ。剛なりの精一杯のけん制だった。自分が彩世のことを好きかどうかは関係なく、知らない間に二人が会っていたことがただただ憎らしかった。


 彩世はクラブ『哀』にいた。今日は自分のお客の来店は少なく、後輩のヘルプに回っていた。彩世はズボンのポケットにある携帯がブルブルと振動していることに気付き、卓を離れてスタッフルームに入った。ズボンのポケットから携帯を取り出し、着信を確認すると諭からだった。彩世は電話を掛ける。2コールで繋がった。
「あんたから電話くれるなんて、珍しいな?」
「今日、会えるか?」
「今、仕事中なんだ。遅い時間なら会えると思うけど」
「何時なら会える?」
「そうだな…。夜中の3時くらいになると思うけど」
「わかった。じゃあ、3時過ぎくらいにお前のマンションに向かう。じゃあな」
「え?あ、おい」
諭からの電話はそこで切れた。彩世は携帯を見つめた。諭からの一方的な会話とその声音に、ただならぬ雰囲気を感じ取った。彩世はスタッフルームを出て、入り口へと向かう。彩乃がお店のスタッフと一緒に居た。
「彩乃」
「彩世、どうしたの?」
「俺、今日、早退するわ」
「あんたね、元から勤怠悪いんだから、他の従業員に示しがつかないでしょ?」
「今日、早退した分、一週間出勤するから!」
「本当にもう…しょうがないわね、わかったわよ。ただし、営業前の掃除もやってもらうからね」
「ありがとう。じゃあ、帰るわ」
彩世はスタッフルームに行って、服を着替えてクラブ「哀」を出た。諭に電話をする。
「なんだ?今、運転中なんだけど」
「仕事、早退したから、今から会えるんだけど、どこに居る?」
「今は…青山の辺りだな。お前は新宿だろ?」
「ああ」
「そうだな…お前のマンションで待ち合わせにしようか」
「わかった」
「じゃあ、また後で」
彩世は電話を切り、靖国通り沿いに向かい、タクシーを拾って、自宅に向かった。マンション前で待っていると、白のクラウンが入ってきた。彩世は仮止めの駐車スペースに案内する。諭は車を駐車して出てきた。いつも通り、白のTシャツにブルーのジーンズを履いている。彩世は諭と一緒にオートロックを抜けて、エレベータに乗り、自分の家のドアを開けた。諭はその間、一言もしゃべらなかった。彩世は諭をリビングに通して、ソファに座るよう勧めた。諭はソファに腰をかける。
「なんか、あったのか?」
「…剛に見せられたよ。お前のつけたキスマーク」
「え?」
「流石にちょっと妬けたよ」
「…あれは」
彩世が言い終わらないうちに、諭は彩世を床に押し倒した。彩世は諭を見上げる。
「あんたが妬いてくれたなら、嬉しいかも」
「お前があんなことするなんて、意外だな」
「…俺もああいうことをしたのは初めてでびっくりした。たぶん…あんたが他の男とホテルに入るのを見て、おかしくなっていたんだと思う」
「それは、本当は俺につけたかったのか?」
「おそらくな。…子供みたいだよな」
「お前がつけたいなら、つけてもいいんだぞ?」
「そんなことして、何の意味がある?それであんたの心が手に入るのか?」
「少なくとも、剛はそう思ったみたいだけどな」
「……そうか。剛があんたに自ら見せたのか?」
「ああ。剛にお前を恋愛対象として見てるって言ったら、けん制されたよ」
「剛に言ったのか?」
「早い方が良いかと思ってな。俺は別に今のままでも構わないんだけど」
「どういうことだ?」
「お前が俺も剛も好きなら、今の状態で良いと思っている」
「一人を選ばなくて良いということか?」
「おかしいか?」
「常識で考えればな」
諭はふっと笑った。
「常識は人間が作ったものに過ぎない。昔は一人が複数と結婚していることもあっただろ?」
「今は日本の法律では禁止されているけどな」
「その割に浮気や不倫の話はなくならないだろ?そもそも当事者同士の問題で、当事者が良いなら別に良いと俺は思うけどな」
「俺も今までは、どちらかといえば、そっちの考えだったけど、難しいな。剛はどうかなぁ?」
「理解できないだろうな。まあ、大抵の人は受け入れられないと思うけど」
「複数の人と付き合うのは、優劣がつくし、自分だけを見て欲しいって思うんじゃないか?」
「……ドバイって知ってるか?」
「中東にある国だろ?それがどうした?」
「あの国は、四人まで奥さんを持てるんだ」
「へぇ~」
「同じサイズの家に住まわせて、奥さん全員と同じ日数を過ごす」
「ふぅん…まあ、形状では平等だな。でも、心の中までは表現できない」
諭は、くすくすと笑った。
「意外だな。お前がそんなことを気にするなんて」
「いや…俺は、そんなことを気にしたことが無かったけど、あんたと会って変わったのかもな」
「そうか…俺は、会いたい、声が聞きたいっていうのがあれば、十分だけどな。他人の心は縛れないから」
「相手を独占したいという気持ちはないのか?」
「そういう考えは所詮、幻想なんだよ。できるとしたら、お互いが関係性を維持する努力を怠らないことだと思う」
「俺には、お金が絡む関係性しか無かったから、よく分からないな」
諭は声を上げて笑い出した。
「何がおかしい?」
「いや、今日、お前が仕事を早退して俺に会いに来たのは、お金的には大損失だろ?」
「そう言われれば、そうだな」
彩世は体を起こしてベランダへと向かい、ズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、煙草に火をつけた。諭もベランダにやってくる。
「怒ったのか?」
「いや…あんたと居ると、ホントに調子を狂わされる」
諭は彩世の吸っていた煙草を奪って吸った。
「あんた、煙草吸うんだっけ?」
「吸わないとは言ってない。今、吸いたい気分になった」
彩世は煙草ケースから煙草を一本取り出して火をつけて吸った。
「夜景が綺麗だな」
「最初はそれなりに楽しめたけど、毎日見てると飽きるよ」
「そうか。俺のこともすぐに飽きられそうだな」と言い、煙を吐き出した。
「あんた、さっき、お互いが関係性を維持する努力が必要って言ってなかったっけ?」
「言った。じゃあ、お前ともっとより良い関係を築こうか?」
「どんな風に?」
「そうだなぁ…一緒に寝るか?」
諭は、煙草を灰皿に入れて、両手を広げた。
「来いよ」
彩世は、吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、諭に歩み寄った。諭は彩世を抱きしめた。
「大きな犬みたいだな」
「あんたが小さいだけだろ」
「確かに。さっきは急に押し倒して悪かった。存分にお前を愛してやるよ」
「あんたが言うと洒落にならない」
「俺はいつも本気だよ」
「…長い夜になりそうだな」
彩世は諭に口付ける。煙草の苦い味がした。

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