#37 朝からの来訪者
翌朝、剛は諭の部屋のベッドで目が覚めた。ベッド脇に置いてあった携帯に手を伸ばす。着信、メッセージは入ってなかった。起き上がって、制服に着替えて、リビングに行くと、既に知多がキッチンに立っていた。
「おはよう。早いな」
「おはよう。スクランブルエッグでいい?」と知多が聞いた。
「あ、俺のことは気にしなくていいからな」
「私もご飯食べるから、ついでだよ」
「そっか。ありがとう。なんか、手伝おうか?」
「座ってていいよ」
「なんか、悪いな」
しばらくすると、知多がスクランブルエッグとベーコン、トーストを載せたプレートをテーブルに置いた。
「うまそう」と剛が声を上げる。
「たいしたものじゃないけど」
知多が剛に箸を手渡し、お互いに両手を合わせた。
「いただきます」
剛は、スクランブルエッグを口に運ぶ。
「やっぱり、いつ食べても、ふわふわだな」
「そんなに褒めても何もでないよ」
剛と知多が会話していると、剛の携帯が鳴った。剛は携帯を取り、電話に出た。
「もしもし」
「剛様~」
携帯の受話口からけたたましい声が響き、剛は思わず携帯を耳から離した。
「…お前なぁ、朝からうるさいな。どうしたんだよ?」
「いや~東京駅に着いたんで連絡しちゃいました」
「え?今、まだ8時過ぎだけど…」
「いや~、いてもたってもいられなくて、飛んできちゃいました。剛様は、どこにいるんですか?」
「知多の家だけど」
「まさか、二人っきりですか?僕がいるのに~」
「二人だけど」
「いや~~~~~」
剛の携帯の受話口から、更に大きな声が響いた。
「内田、周りの人の迷惑になるから叫ばない方がいいよ」と知多が言った。
「確かに。めっちゃ見られてる!!」
「…ったく、待ってるから、早く来いよ」
「はいっ!全速力で向かいます!」
「いや、ゆっくりでいいから・・・」
剛が答えた言葉は、内田の耳に届くことなく、電話が切れた。
「内田は、相変わらず、元気だね」
「ああ。俺は授業さぼるけど、知多はどうする?」
「私は、途中から行こうかな」
「うわ。真面目」
「それが私だから」と知多は剛を見て微笑んだ。
「確かにな」と剛も微笑み返す。
剛と知多は、スクランブルエッグとベーコン、トーストを食べ終え、知多は食器を流しに持っていき、コーヒーを淹れ始めた。その時、インターフォンの音が鳴った。剛は、インターフォンのモニターを眺めた。内田らしい姿を確認して、開錠のボタンを押した。
「・・・あいつ、何であんな恰好なんだ?」と苦々しげにつぶやいた。
「え?どうしたの?」と知多はコーヒーを机に置きながら剛に聞いた。
「いや・・・なんでもない」
剛はドアの鍵を開けるために玄関に向かった。鍵を開けると同時にノブが傾き、ドアが開き、女性が剛に抱きついてきた。剛は受け止めきれずに、その場に倒れ込んだ。その音を聞きつけて、知多がやってくる。
「剛・・・大丈夫?」
知多の目には、女性が剛の上に乗っかって抱きついている姿が見えた。
「内田?」
知多に声を掛けられた女性は、剛の胸に顔をそのまま埋めていた。
「あ~、剛様の匂いだ。久々過ぎる!」
「お前、犬じゃないんだから、離れろよ」と剛は女性を自分の体から引き剥がそうとする。
「いやです~離れたくない」
知多は、二人のその光景を見守っていた。
「知多ぁ、見てないで助けろよ」と剛は知多に向けて声をかけた。
知多は剛と内田に近づき、内田の腕に手を添えた。
「分かりましたよぅ」
ようやく、内田は剛から離れた。剛は立ち上がり、リビングに向かう。内田は、頭にボンネットを被り、レースがたくさんついた黒いワンピースを着ていた
「内田・・・見ないうちにだいぶ、変わったね。最初、全然分からなかった」
「どう似合う?」
「うん。似合ってるよ」
「知多、そういうこと言うと、そいつが図に乗るからやめろ」と剛が会話に割って入った。
「ひどい。剛様~」
「内田、とりあえず、上がって」
知多に促されて、内田は、靴を脱いでリビングに向かった。机にはコーヒーが三つ並んでいた。内田はすかさず、剛の隣の椅子にかけて、剛の腕に絡みつく。
「あ~もう、離れろよ」と剛は声を荒げた。
「良いじゃないですか~?会うのは、久しぶりですし」
「ベタベタされると、うざい」
「内田。桜は元気?」と知多が聞いた。
「うん。元気だよ。新しい友達も彼氏もできたし」
「えっ?あいつ、お前のこと好きだったのに、どうして?」
剛は内田に驚きの表情を向けていたが、知多の表情は変わらなかった。
「え?知多、なんか知っているのか?」
知多は、自分に対して質問をされていると思わないくらいに反応がなかったが、しばらくして口を開いた。
「・・・憶測だけど、桜の記憶を消したんじゃないの?」
内田は知多と目線を合わせたが、応えようとしない。剛は内田の方を見た。
「そんなこと・・・できるのか?」
「万人に効く訳じゃない。たまたま桜がかかりやすかっただけ」
「お前・・・桜に聞かずに勝手に記憶を消したのか?」
「僕に関わる記憶だけね」
剛は内田の胸ぐらを掴み、「なんで、そんなことをしたんだ?」と問いかけた。
内田は剛の目を見つめていたが、顔を背けて「・・・あと三年しか生きられないって分かっていて、一緒にいられないよ」と呟いた。
剛は、その言葉を受けて、自分自身に問いかけた。
『彩世さんと結果的には、うまくいかなかったけれど、出会わない方が良かった?』
彩世さんと初めて出会った時のこと、初めて過ごした夜、一緒に出掛けた海、そして、彩世さんから兄さんが好きだと告げられたこと等、次々とその時の情景と共に伴った感情が蘇える。楽しい思い出だけじゃなく、悲しい思い出も思い浮かんだが、彩世さんと出会わなければ、こんな気持ちを持つこともなかった。それでも、確かに自分を形成していく中に彩世さんは必要な存在だったと剛は、思った。剛は内田の胸ぐらを掴んでいた手を緩めていた。ふいに自分を包み込む感触があり、目を開けると知多が目に入った。剛は内田に目線を向けた。
「将来が悲しい出来事を迎えると分かっていても、記憶を消したら楽しかった思い出も全部、消えてしまうんだぞ。お前はそれでいいのか?」
「桜を悲しませたくなかった」
「それって、ただのエゴじゃないのか?」
「そうかもしれない。だけど、もう遅い…。僕の姿を見ても桜は思い出せないし、今更戻せない」
内田は顔を下げたままで、剛はそれ以上に内田に声をかけることができなかった。