#7 決戦は金曜日(前編)
諭と約束した金曜日、彩世は20時30分に女の子と同伴してクラブ「哀」に入った。既に彩世指名の卓が2卓入っており、彩世は一つずつ、卓を回り、女の子とお酒を飲みながら、会話をした。
その後、22時を回ると彩世指名のお客が次々と来店し、彩世は合計3卓を回った。23時半過ぎになると、内勤から初客の指名が入ったことが伝えられた。内勤に案内され、席に向かう。
「初めまして。彩世です」と言い、名刺を差し出す。
女は彩世の名刺を受け取ると、テーブルに置いた。
「お名前はなんて言うんですか?」と彩世は女を見た。
女は、長い髪で黒のロングのワンピースを着ていた。白い肌で長いまつげに切れ長の目、しゅっとした鼻に薄くて形の整った赤い唇をしている。店内がうす暗くて最初はよくわからなかったが、その顔を見間違うハズがなかった。
「…諭。なんで」彩世が言い終わらぬうちに、諭が「さとみです」と答えた。
彩世は平静さを装い、「お酒、いただいても良いですか?」と聞いた。彩世はここではホストに徹しようと腹積もりを決めた。
「どうぞ」
諭のお酒が減っていることに気づき、彩世はすかさず、「さとみさんも飲みますか?」と聞いた。
「はい」
「お酒の濃さはどのくらいがいいですか?」
「あんまり飲めないので、薄めで」
彩世は慣れた手つきで新しいグラスを二つ取り、氷を入れた後、鏡月をそれぞれのグラスに注ぎ、水を入れてマドラーで軽くかき混ぜ、一つは諭の前に置いた。
「じゃあ……今日の出会いに乾杯」
彩世はグラスを片手に持ち、もう片方の手を片手に添えて、諭のグラスに合わせた。
グラスが触れ、カツンと軽く音が鳴る。
「隣に座ってもいいですか?」
「どうぞ」
彩世は諭の隣に腰かける。
「今日、お店に来るのは初めてと聞いたんですが、楽しんでいますか?」
「はい」
彩世はテーブルの上にある名刺に視線を一瞬うつして、諭に声をかける。
「りゅうと夢幻が来たと思いますが、どうでした?」
「それなりに楽しかったですよ」
「そうですか。りゅうは、三十路ネタをやってました?『俺、もうすぐ三十になるから可哀想な俺を救えるのは君しかいないんだ~』ってヤツ」
「あ、言ってました」
「あれ、面白いですよね。今日は何でお店に来てくれたんですか?」
諭は、鏡月の水割りのグラスを手に持って少し飲んだ。グラスに口紅の跡がつき、さり気に指で拭いとる。よく見る光景だが、諭がすると、何か特別な感じがした。諭は、彩世の方を向いた。
「…貴方に会いたかったんですよ」
「俺目当てだったんですね?嬉しいなぁ。実際に会ってみてどうですか?がっかりさせてないと良いんだけど」
「期待通りでしたよ」と諭がにっこりと彩世に微笑み返す。
彩世はこの地獄のような時間を早く終わらせたかった。緊張で喉が渇き、お酒を一気に飲み干した。その時、内勤から声がかかり、別のお客様の指名が入ったと耳打ちされた。
「さとみさん、もっと一緒に居たかったのですが、お呼びがかかってしまったので、失礼しますね。さとみさんと一緒に過ごせて楽しかったです。今日は楽しんでいってください」と言い、彩世は席を立ち、諭が居る卓を後にした。内勤に諭の卓に入るホストを確認すると、後は零と北斗とのことだった。彩世はその足で、奥にあるⅤIP席に向かった。相手は社長令嬢の菫という女性だった。彩世が来ると、抱きついてきた。だいぶ、お酒が入っているようようで、足元がふらついている。彩世は近くにいたホストから水の入ったグラスを受け取り、菫に渡した。菫は彩世からグラスを受け取ると、彩世に向かってグラスに入った水を浴びせた。
「彩世さん!」
ヘルプで入っているホストが駆け寄り、タオルで彩世の顔や服を拭く。内勤がその騒ぎを聞きつけて、やってきた。彩世は内勤にタクシーの手配を頼むと、菫を両腕で横に抱きかかえ、入り口へと向かう。フロアを通り過ぎる時に彩世が女の子を抱きかかえている姿を見て、他のお客様がちょっとした歓声を上げた。ヘルプのホストが彩世の周りを取り囲み、その姿が見えないようにして、通り過ぎていく。
彩世は入り口近くにあるソファに菫を下ろした。菫はぐったりして、眠っていたが、薄目を開けて彩世を見上げた。彩世は菫の顔の近くまで、自分の顔を近づけるようにしてしゃがんだ。
「…飲みすぎ。タクシー呼んだから、それに乗って家まで帰れよ」と彩世は言った。
「え~…帰りたくない」と菫は言い、彩世の首に両腕をまわす。
彩世は菫の手に触れ、腕を振りほどき、「また今度な」と言った。
内勤が彩世の元に寄ってきたので、後のことは内勤に任せ、彩世はフロアに戻った。フロア内の様子から騒ぎが収まったことを確認して、彩世は店のスタッフルームに入っていった。スタッフルームのソファに腰かけて、両ひじを両ひざの上に置いて、両腕に頭をもたげて、深いため息を吐いた。左腕にある時計を見ると、0時45分となっていた。後、15分で今日が終わると思うと、ほっとした。その時、内勤がやってきて、送り指名を伝えてくる。諭のいる卓だった。彩世はスタッフルームを出て、諭の居る卓に向かう。
「送り指名していただき、ありがとうございます」と彩世は言った。
「…思っていたより、楽しかった」と諭が言う。
「お気に召していただいたなら、何よりです。次回のご来店もお待ちしていますね。出口までご案内いたします」
彩世は時折、後ろを向き、諭がついてきていることを確認しながら、出口までエスコートした。
「さとみさん、じゃあ、またね」と言い、彩世は笑顔で手を振り、諭を見送った。
彩世が店内に入るとラストソングが流れていた。彩世は内勤に声をかけて、スタッフルームに戻った。スタッフルームの自分のロッカーから予備の私服を手に持ってシャワー室に入り、洋服を脱いで、シャワーを浴びた。その後、予備の私服に着替えて、元々来ていた服をショップバッグに入れた。隣の部屋のパウダールームを見ると、ヘアスタイリストのヒカルが居た。
「ヒカル。悪いんだけど、髪のスタイリング、お願いしていい?」
「良いですよ。さっきの騒ぎをフロアで見てたんですけど、大変でしたね」
「まぁ、酔っぱらっている女はだいたい、あんな風になるからな」
ヒカルは彩世の髪をドライヤーで乾かし始める。彩世は携帯を確認すると、着信が五件来ていた。着信を確認すると、そのうちの四件は先ほどの社長令嬢で残りの一件は諭からだった。受信メールは十五件程来ていて、女の子たちからだった。彩世は一件ずつ、順番にメールを返していった。ヒカルがドライヤーを使わなくなったのを見計らって、彩世は菫に電話を掛けた。4コール目で電話が繋がった。彩世が声を出すより早く、女の声が聞こえた。
「彩世、今日、ごめんね。ちょっと飲みすぎちゃったみたい」
「…お前、毎回、お店来て、同じこと言ってない?」
「そうだっけ?じゃあ、彩世が止めてよ」
「俺が居る時はちゃんと止めるよ」
「そう言って、ほとんど居ないじゃん」
「分かった。今度、埋め合わせしてやるから、行きたいところ、考えとけよ。じゃあ、またな」
彩世は電話を切った。
「さっきの人ですか?ちゃんとフォローしてスゴイですね」
「…あれは、俺への当てつけみたいなもんだからな」
「どういうことですか?」
「俺が他の女に接客しているのが、気に食わないんだよ。だいたいのお客は、俺があんまり接客できないのを理解した上で、指名してくれるんだけど、あの女は有名企業の社長の娘で、チヤホヤされるのが当たり前だから、通用しないんだよな。このままだと、他のお客さんにも迷惑かかるから、なんとかしないとな」
「…お客様は神様って言いますけど、選ばないといけないのかもしれませんね」
「これまでは、そんなことも無かったけど、そろそろ考えないといけないな」
「どんな風に仕上げますか?」
「そうだな。前髪を上げてくれる?」
「う~ん…彩世さんの髪の長さなら、横に流す方が似合うと思いますけど」
「お前に任せるよ」
「了解しました」
ヒカルはそう言って、彩世の前髪をブラシで横に流し始めた。数分後、髪のセットが完了し、彩世はヒカルにお金を払い、店を出た。