「紺青のズボン」を絵にしてもらいました。
*見出し画像は清世さんのイラストをお借りしています。
清世さんの企画で私の小説を絵にしてもらいました!
他の方の作品を絵にした投稿も見ながら自分の番はもうすぐだろうかとワクワクしながら待っていた。
そしてついにnoteを開いた時にあなたの記事が話題ですとのポップアップが表示されたのでワクワクする気持ちを抑えながら清世さんの記事を開く。
するとそこには若草と牡丹が夜行バスの中で対話している場面が描かれていた。
若草と牡丹がいたのだ。
私の小説を元に絵を描いたのだから当然だと思う方もいるかもしれないがそこにいたのは私が小説を書く時に頭の中でぼんやりと思い描いていた若草と牡丹だったのだ。
小説にしろエッセイにしろ自分の思考や感情を言語によって形にすることはできる。
しかし、若草という少年がいると書いても読み手によって各々の若草を想像するだろう。もちろん背は高くて髪は何色でなど描写を細かくすることで私が思い描く若草と読者の方が思い描く若草を近づけることはできるがやはり絵の方が同じ若草を共有できると思った。
よく小説がドラマ化や映画化されると自分が思い描いていた登場人物と違うなと感じた経験はあったが今回はむしろその逆だった。これが私が思い描いていた若草と牡丹だ!!
そして何よりただ絵にするのではなく私が小説で届けたかった思いも込めて書いてくださったという事実がとても嬉しかった。
小説「紺青のズボン」だけでなくあとがきや他のnoteの記事も読んでくださっていたようでそこから私の思考を絵に反映してくれたのだろうと思いました。
今回はタイトル無しで。
何者かになりたいと何者でもない誰かになりたい彼らの対話の挿絵で名前を与えると世界が狭くなりそうだと思ったからです。
個性とは組み合わせ で、掛け算(×)や星の数ほど個性がある、といったイメージに。
このふたつの文章がさらに嬉しかった。何者かになりたい少年若草にとってその「何者か」を他者から与えられることは嫌うはずですし何者にもなりたくない牡丹に関してもそうであるだろう。
さらに個性は組み合わせであるという私の考えを絵にこめてくださったことも嬉しかった。
清世さん本当にありがとうございました!
「普通とは何か」を書いてほしいとのコメントをいただいたので考えてみたいと思います。