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海開きの前に

毎年七月第二週の土曜日に行われる海水浴場の海開きよりも早く、五月になると毎朝、地元の海へと自転車を走らせる。どちらが先に海へ到着するかの勝負がかかっているから、横で必死に自転車を漕ぐプリワーロフに負けないよう、ペダルを踏むペースを上げた。

季節外れだから砂浜には散歩をしている年寄りを見かけるぐらいで人はほとんどいない。草むらに自転車を倒して堤防を乗り越え、あと二ヶ月もすれば海水浴客でいっぱいになる砂浜を全力で、ゴールの岩場を目指して二人で駆けおりていく。

先に岩の上に到着したのは自分のほうだった。年下のプリワーロフにはまだまだ負けるわけにはいかない。息を切らしながら、前方に浮かぶ小さなネズミのような形をした島を眺める。防波堤の向こうへと漁に出かける船が遠ざかっていく。

遅れてやってきたプリワーロフが肩で息をしながら岩場へ登ってきた。
「どう、まだ冷たいかな?」
「今月いっぱいは我慢しないとだめだとおもうよ」
春の海はまだ深い紺色をしている。穏やかな波に足を差し入れ、ゆっくりと体を慣らしながら海に入っていく。

昨日より暖かくなったとはいえ夏には程遠く、午前中は水温が低くてまだまだ肌寒い。横でプリワーロフが同じように身をすくめている。じっと浸かっていると身震いが止まらず凍えてしまいそうだから、体温が奪われないように手足を動かし、水温に体を慣らしてからゴーグルだけをつけて海底へと素潜りしていく。

周囲を観察しながら息の続く限り底に潜っていると、プリワーロフが左手を指差した。できるだけ静かに脚を動かして、春の柔らかな日が差し込む海中を泳いでいくと遠くに魚影が見えてくる。どこまでも平らな海底に数十匹のボラの群れていて、藻やデトリタスを食べている。

ボラに逃げられないようプリワーロフとアイコンタクトをして、徐々に近づいていく。ボラは警戒心が強い魚だけれど、ここ何日かでようやく慣れてきてくれたらしく、最初の頃のようにすぐに逃げられることもなくなってきた。

この時期に海岸近くまでやってくるのはまだ幼いボラで、手のひらよりも小さい。ボラがしているのと同じように、プリワーロフと二人で海底の藻をこそげ取るような動きを真似して頭を振りながら泳いでみせると、子ボラたちは不思議そうにこちらの様子を伺っていたりする。大人のボラぐらいには思ってくれているのかもしれない。

鰓呼吸のボラとは違って人間には息継ぎが必要になる。その際にはそれまでの静かな泳ぎとは変えて、わざと勢いよく海底を蹴り、水面に飛び出すようにして息継ぎをする。子どものボラはまだ成魚のように跳ねることを知らないから、こうして人間がお手本を見せなければいけない。

ボラたちに見えるように水面へと勢いよく泳ぎ、ふたりで幾度となく飛び跳ねてみせるけれど、所詮、人間の脚力と体重ではそれほど高くは飛べないから、ボラの目には滑稽に映っているかもしれない。ただそれでもお手本ぐらいにはなる。

プリワーロフと代わる代わる息継ぎをしていると、陸の方で誰かが自転車のベルを鳴らすのが聞こえた。音がした方へ目をやると、堤防の上でシューラが手を振っている。こちらも手を振りかえすと、シューラは自転車をこいですぐにどこかへ去っていった。女は男よりも早く大人になるらしく、「こんな馬鹿馬鹿しいことには付き合ってられない」と今年の初めに宣言をされていたのだけれど、様子は気になっているのかもしれない。

この辺りでは代々、子供たちがボラに跳ね方を教える役割を与えられているけれど、集落の人も減り、昔のように大人数で行うこともなくなってしまった。シューラだけではなく、歳上のヴァーリャも勉強だとかスポーツとかで忙しくしていて今年はもう参加しなくなったし、プリワーロフの弟のガーリクに関しては母親からストップがかかってしまった。

自分もそのうち、この役目からは卒業することになる。最初に参加した時とは打って変わってプリワーロフの跳ねる真似もすっかり堂に入ってきたから、この先もなんとかうまくやってもらえるといいのにと、すいすいと水中から飛び出していくプリワーロフの姿を眺めた。

そうして一時間ほどボラの様子を伺いながら潜ったり飛び跳ねたりしていると、海の中にまっすぐ太陽の光が差し込むようになってきた。昨日までの寒さとはうって変わって暑い日になりそうで、水温もわずかではあるけれど高くなってくる。海底には子供のボラだけではなく、大人のボラの姿もいくつか目に入るようになってきた。

何十回目かの息継ぎで水面から勢いよく飛び出したタイミングで偶然、大人のボラが近くで同じように跳ねて、そのボラと目が合った。ボラは心なしか驚いた表情をしている気がしておもわず吹き出すと、海水を少し飲んでしまう。むせる自分を見て、プリワーロフがけらけらと笑った。

幾度となく繰り返し跳ねていると疲れてきて、そろそろ今日はやめにしようかとプリワーロフと話していると、近くの工場の排水ポンプが動き出した。水中にいても、遠くから唸るような音が聞こえてくる。ボラたちもすぐに気づいたらしく、動揺したのか動きがすこし素早くなった。

ポンプの騒音に戸惑ったボラたちは、海底をあちこち泳ぎまわっている。最後にもう一度、水面へと飛び出してみせてから、もうバテてしまってこれで終わろうと、水面で立ち泳ぎをしてプリワーロフを持つ。あたりを見回すと海の色は朝ほど濃くはなく、青みががっていて、夏の海に近づいている気がした。

高い位置まで登った太陽の照り返しできらきら光る海面に目を細めていると、プリワーロフが勢いよく飛び出してきた。その後に続くようにして、静かな海面をばしゃっと魚がはねた。小さなその幼いボラの、ちゃぽっという着水の音は波の音にすぐにかき消されてしまう。どうやら、今年の新人もついに飛び跳ねることを覚えてくれたらしい。

まだ別の場所で同じように、小さなボラが跳ねる。
「やった」とプリワーロフが両手で水面を叩いた。
充足感と泳ぎ疲れによる腿のしびれを感じながら海を見渡すと、やがて周囲で呼応するように、海のあちこちでボラが遠慮がちに飛び跳ねはじめた。

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