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夜の水族館
館内には非常灯しかついていないから、水槽には反射した自分の姿が写っているばかりだった。しかし深夜ということもあって水族館の魚もきっと眠っているだろうから、見えなくてもあまり問題はない。
小さな熱帯魚の展示が並ぶ通路の途中にある、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれている扉は、閉館後には施錠されることになっている。はずなのだけれど、ここみたいに昔からあるような古びた水族館では、そういった小さな決まり事は守られることもない。
扉の向こうはバックヤードになっている。通路の突き当たりを右に曲がって、二番目の階段をのぼる。手すりの先は水槽の上部で、非常口の光を反射して水面は緑色に揺らめいている。客用フロアから見れば、この水槽の説明文には『汽水域の魚たち』と書いてあるはずだった。
重く肩に食い込む大型のクーラーボックスを静かに下ろして、蓋を開けた。中には20cmほどの大きさのボラが二匹、おとなしく泳いでいる。ボックス内の水温を測ると、移動中に水温が下がることを考慮していた通り、23℃になっていた。続いて展示水槽の方に水温計を浸けてみると、表示は25℃だった。おもわず舌打ちをする。23℃に設定しておかなければいけないのに、今のここの職員は水温の管理もできなくなってしまったようだった。苛立ちながら、水槽から水をすくってクーラーボックスのものと入れ替える。それを何度か繰り返して水合わせをしていく。
島根にあるゴビウスという水族館のボラ水槽に感銘を受けて、働いていた水族館にも巨大なボラ水槽を作ろうと熱心に働きかけた結果、邪険に扱われてそのままクビにされてしまってから、もうずいぶんと経つ。魚に興味がないのにずっと居座り続けている管理職の人間たちは、クビになった人間が鍵を返していないことに気づいていないから、仕返しの意味も込めて、夜な夜な忍び込んでは汽水域水槽に勝手にボラを放っている。
汽水域の魚たちに与えられる餌を一緒になって食べられるよう、ボラたちには自宅の水槽で人工餌を食べる練習をさせてから水族館に連れてきている。しかし、それでもなかなかうまくいかなくて、ボラたちはあまり長生きはできていないようだった。他の魚が多すぎてストレスを感じるのか、ボラはいつものような落ち着きを見せてはくれないようで、より頻繁に、多くのボラを水槽に入れて仲間を増やす必要がありそうだった。
クーラーボックスの水温が25℃になり、水族館の水にもほどよく慣れたところで、ボラを静かに水槽へと入れる。ボラたちはすぐに底の方へと潜っていって、水面からは見えなくなった。バックヤードを出て夜の水族館へと戻り、暗いガラスに目を凝らすと、汽水域の展示の他の魚たちは何事も起こっていないように静かに漂っているけれど、投入されたばかりの二匹だけは自分の居場所を確かめているのか、水槽内を不安そうに泳ぎまわっていた。しかし明日になれば、きっと前からそこにいたように泳いでくれるようになるだろう。この水槽をボラたちが群れて泳ぐ姿を想像するだけで興奮してくる。もっと忍び込む回数を増やさなければいけない。