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船いっぱいの鯔を

 漁師や釣り人は、夜明けから日の出までを「まずめどき」と呼ぶ。魚を取るには絶好の時間帯なのだけれど、田舎の小さな漁港しかないような海だとそれほど人もいない。このまずめどきに自分はこっそりと、岬をまわったところのスポットでいつも誰にも知られないように漁をする。

 その場所にはボラがよく泳いでいる。近くの小さな岬の名前には鯔の漢字が使われているようなところだから、かつてはボラ漁が行われていたのだろう。しかし今ではボラなんかを獲る人はすっかりいなくなってしまったから、もうこの漁場は自分だけのものになったともいえる。

 ボラはとても敏感な魚で、水中の音などに反応して飛び跳ねる習性がある。小船のモーターを止め、しばらくは静かにしておいて、いったんは逃げ出したボラが戻ってきたのを見計らってから、火薬と手製の装置を使い水中で破裂音を響かせる。すると驚いたボラが飛び跳ね、その飛び跳ねたボラの出す音におどろいてさらに違うボラが、連鎖的にばしゃばしゃと水面から飛び出してくる。

 こうなるとあたり一面にはボラが飛び跳ねているので、大き目の網を差し出しておけばすんなりと獲れるし、場合によってはそのまま船にまで飛び込んできてくれるから苦労はない。

 十匹ほど獲ったらその場でボラの首をぱきっと折って、血抜きをしておけば臭みも残らないし、ボラは保存がきく魚だから冷蔵庫で一週間、冷凍しておけばさらに長い間もってくれる。あとは、刺身に煮物、てんぷらにフライと好きな食べ方をすれば、おかずに困ることはなかった。

 暖かくなり始めたころ、いつものようにボラを獲りに船で岬をまわっていくと、いつもとは少し様子が違う。まだ薄暗い海面が一様に灰色っぽく奇妙にうごめいていて、目をこらすとそれらはすべてボラで、ニュースで話題になるようなサイズの小さなものではなく、成魚が異常発生しているようだった。成魚だから川で見かけるコイほどの大きさがあり、それが見渡す限りの海を埋めつくしていて、どこまでもざわざわと海面が乱れているのが不気味だった。

 こんなにボラがいるとなれば、いつものように火薬を爆発させておどろかせてやるとどれだけ大漁になるのだろうかと、あまり深く考えずに装置を作動させたのがそもそものまちがいで、破裂音が響いた瞬間、日の出前の静まり返った海が一変した。

 海のありとあらゆる場所からボラが飛び出してきて、その騒ぎに驚いたボラがさらに飛び跳ねて、あっという間にひどい騒ぎになった。船の上をボラが飛び交い、すぐにしぶきで全身びしょぬれになった。ボラはこんなに高く飛べるのかと感心する暇もなく、ボラは船に飛び込んでくるだけでなく、こちらの体にも次々と体当たりをしかけてくるけれど、狭い船の上では身をかわすこともできない。

 銀色の弾丸が飛び交う中、飛び込んできたボラを踏んづけて足を滑らせながら、あわてて逃げ出そうと船のエンジンを起動させたところ、ががががとモーターに何かが噛んでいたようで、煙が上がりそのままうんともすんとも言わなくなってしまった。プロペラのあたりに大量のボラが挟まっていて、硬い頭の骨を巻き込んだせいでモーターがダメになってしまったようだった。

 ボラの騒ぎは収まらず、むしろひどくなっていく。もう漁どころではなく、小船いっぱいにボラがいて足の踏み場もないし、新鮮そのものの銀色の絨毯の上には、さらに次々とボラが降り注いでくる。

 ふと視線を上げると、地平線がさきほどよりも近い位置にあることに気がついた。折り重なったボラの重さで船が沈みつつあるようで、これ以上ボラが増えると、縁から海水が流れ込んできていよいよ沈没してしまうことにもなりかねない。

 慌てて、船底でばたばたしているボラをつかんでは海に投げ返していくものの、ぶん投げるそばから別のボラが飛び込んできて、投げ捨てるスピードよりも乗りこんでくるボラのほうが多く状況は一向に良くならない。

 そうして一心不乱にボラを海に投げ捨てていると、暴れるボラの鋭利な尾ビレや背ビレによって、両手はあっという間に血まみれになってしまった。しかし、船を捨てて泳いでいくのは興奮しきっているボラの群れの中を泳いでいくことになり、それは今の状況より、もっとおそろしい。

 そうこうしているうちに飛び跳ねるボラのウロコが目に入り、痛くてひるんだすきに船底のボラを踏んづけて、足を取られてしまった。転ぶ際に肩を激しく打ち付けて、あまりの痛さにボラと一緒に横たわったまま、しばらく動けなくなった。誰か漁師が来てくれればいいのだけれど、日の出まではまだ時間がかかりそうだし、ボラたちも落ち着く気配はなく、元気に船に飛び乗ってくる。

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