人間の価値を決めるものは
人間の価値とはそもそもなんぞ?ですが、これは各々の胸にポッと浮かんだこと、でよいのではないでしょうか。適当。
これはちょっと詐欺タイトルかもしれない。
私が書きたいのは、人間の価値を決めるものは「何か(何のパラメータなのか)」という話ではない。価値を決めるものは「誰か」というニュアンスだからだ。でも、周りでは「何か」について書かれたり話したりされていることが多いように思う。
ジャッジされることを恐れるのに、ジャッジのルールを知りたがる。はなから見ないようにすれば知らずに済むのに。知らなければ悩むこともないのに。と自分でも思うけれども、簡単に割り切れんわいということで、触れなくても良い情報を摂取して調子を崩す。よくあることだ。
この世界にはたくさんの言葉が存在する。私が言うまでもなく、言葉は道具だ。包丁や金槌やバールのようなものを使ったことのある人達ならわかるだろうが、使い方により道具は凶器になるのだ……凶器として使うつもりや自覚がこちらになくても。
話が逸れてしまったが、タイトルの『人間の価値を決めるものは』に戻る。
人間の価値を決めるものは「何か」という問いについては、私は「決められない」と返す。例えば数値化されたパラメータであれば、全世界の人間の統計データから第一位を割り出すなんてのは簡単なことだろう。どんな些末な差であれど、一番はひとつしかない(同率首位の考えはいったん置こう)なのだから。
でも、私たちは数字の一番のみを愛し、憎み、一番以外はどうでもいい……とは考えないはずだ。
私たちが見出しているのは対象そのものの価値ではなく、自分自身が受け取った満足感、もしくは不快感であり、この感情の大きさにより「私の中での」心理的ランク付けが成されるかもしれないが、これは対象には何の関係もないことだ(グッズやらCDやらの売り上げへの影響などもいったん置こう)。
では、人間の価値を決めるものは『誰か』であるが……価値を決められる存在があるとすれば、それは人間を超えた存在である、とでも言おうか。私はそれを神様仏様の類と規定することもあるが、もっとスピリチュアルな捉え方かもしれない。ご先祖様たちが遠いお空で見ているよ、くらいかもしれない。
つまるところ、同じ人間には人間の価値は決められない、と考えているのだ。人間なんてのは、推しや好きなタイプや親友や好きな食べ物なんかを一つに定められない、意思やわやわな存在だ(でもそこがいいところとも思うよ)。そんな存在が人間の価値を破綻なく正しく決めるなんてできるわけがない。
強引に話を進める。
私を含め、生きていく上では、皆さまそれぞれそれなりに思うところがあるだろう。中には思いが強すぎて、好きなコンテンツを手あたり次第に布教しまくる強火オタクみたいになっている人もいるようだ。
他人の言葉を根拠として、自分自身の生き方をジャッジしそうになったときは、よく見て(聞いて)ほしい。目の前の語り部は大体においてただの強火オタクだ。気が合えば同じ沼にハマるもよし、ジャンルや好みが違うのであれば、三猿になって場を離れるのが良い。お互いにとってそれが幸せだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?