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僕たちは森見登美彦になれない
森見登美彦という作家をご存じでしょうか。
ご存じだからこのエントリを読んでいると思うので、詳しい説明は省きますね。僕が大好きな作家の一人です。
日本的なマジックリアリズムを成立させている稀有な作家で、さらに特徴的なのがその文体。たとえば、代表作『四畳半神話大系』は次のような書き出しではじまります。
大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。
責任者に問いただす必要がある。責任者は何処か。
(森見登美彦:『四畳半神話大系』角川文庫)
凝りに凝りまくっているのに、すらすらと読めてしまう文章。やっぱり書き出しに気合いの入ってる小説というのは、読んでいて気持ちいいなー。
と、そう思うじゃないですか。
違うんですよ。
森見登美彦作品のすごいところは、こういう文章が書き出しだけじゃなくて、物語の終わりまでずっと続いていくところなんです。ずっとずーーーっっエンジン全開。こんなの、常人が真似できるわけがありません。
書き出しだけ森見登美彦症候群
ここ1年くらいたくさんの小説を読んでいるのですが、結構「書き出しだけ森見登美彦症候群」にかかっている作品を見かけます。
読んで字の如く、書き出しは仰々しく書かれているのに、10行目くらいからは特徴の薄い平々凡々な文体に戻っていく作品のことです。
もちろん、書き出しは作品の顔ですから、色々と試行錯誤をしてみるのは大切だと思います。効果的な書き出しによって読者の心を掴んでいる小説は枚挙に暇がありません。
春が二階から落ちてきた。
(伊坂幸太郎『重力ピエロ』新潮文庫)
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。
(綿矢りさ『蹴りたい背中』河出書房新社)
桜の樹の下には死体が埋まっている!
(梶井基次郎「桜の樹の下には」青空文庫)
書き出しにこだわるのは良いのですが、問題はその後。いかに書き出しとの隔絶をなくした文章が書けるのか、ということが重要なのではないかなと思います。書き出しとそれ以降の隔絶が大きい作品には、読者の期待を悪い意味で裏切る効果があります。
森見登美彦先生を引き合いに出しているので、このまま例に使わせていただくと、たとえば書き出しが森見登美彦作品のそれだと、読者は「お、これから森見登美彦の文体で作品が読めるんだな」と期待します。しかし10行目以降は森見登美彦の“も”の字も出てこないとなると、読む側はがっかりしてしまいますよね。
また、仰々しい文章がちょっと苦手という読者は、この小説の顔たる10行を読んで「ちょっと苦手だからやめておこうかな」と思うはずです。その後は文体が平易なものに変わるので、そこからはすんなりと読めたかもしれないのに……。
小説の書き出しには、読者にその作品の期待値を見定めてもらうという効果があります。そこで着飾るのは別に良いし、むしろ推奨されるべきことですが、書き出しだけ自分の文体を崩すように力をこめて書くのは、誰も幸せにしません。僕はこの状態のことを書き出しだけ森見登美彦症候群と呼んでいます。
物語には起伏をつけた方が良いですが、文体はある一定のテンションを保った方が良いのかなと思った次第でした。そういう視点で改稿したりすると、良い作品に仕上がるかもしれません。
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