一言日記
7月28日
流石に心が限界になってきてしまったので、一言日記でこの狂気のログを残すことにする。正直今更やるよりも御子柴のアーカイブが消えた日からやるべきだったとは自分でも思わんこともないが、まあでもやらんよりはマシだろ。
7月3日にアーカイブが消えてからずっと情緒が不安定だ。推しの存在そのものの確認が出来なくなることなんて今までのオタク生活の中でなかったので、当然と言えば当然かもしれない。
メタな話をしてしまうが、VTuber(未満)という職業が故に、あちらが「御子柴仁」であり続けることを選ばない限り我々リスナーは「御子柴仁」という存在に触れることは出来ない。もしかするとインターネットの中や私と同じ世界線によく似た誰かがいるのかもしれないが、でもその人は私が推している「御子柴仁」ではないのだ。なんて話、ちょうど1年前もある人としたな、なんて思い出してまたセンチメンタルになってしまった。
在校生としてその名前が明確に残っていたらきっとここまで不安定になる事もなかったのだと思う。だって「存在」はしているので。
生身の人間を推すこととVTuberを推すことの1番大きな違いはそこなんだと思う。その人がバーチャルの世界にい続けてくれないと、我々リスナーからすればそれは「推しの消滅」となんの変わりも無いのだ。インターネットの藻屑となってしまったその人のことを想いながら、「バーチャルの人間として」その人が残した遺産をチマチマと掻き集めることしか我々には出来ない。
正直苦しいなと思う。
「バーチャル世界に生きる推し」が卒業すると、もうその人は「存在」しなくなってしまう。「引退したけどどこかで生きてる」と思いたくても思えない。
ログインされなくなったソーシャルゲームのキャラクターたちは、その期間何をしているのか。それについて解釈はそれぞれあると思うが、私は「キャラクターたちの時間が止まる」と思っている。それでもプレイヤーであった私の時間は当たり前のように、ただ前へ前へ先へ先へと進んでいく。そのソシャゲを通じて知り合った友人たちとも関わるし、そのソシャゲの情報が耳に入ることもある。それでも私の、私だけのそのアカウントの中で、キャラクターたちの時間は永遠に止まっている。
それと同じなのだ、「いなくなってしまったバーチャル世界の人たち」というものは。
きっと「あちら側」の人たちの交流はいつまでも続いていて、それぞれの時間がチクタクと進むのだろう。運が良ければ「あちら側」の人たちから推しとの交流エピソードが漏れ聞こえるかもしれない。
それでも卒業してしまうと我々の目の前にその推しが現れてくれることはもうないし、その人の配信を眺めて、その人と同じ時間の流れを一緒に共有することは二度とないのだ。「その人」の時間は止まってしまうから。
願わくば御子柴仁が「御子柴仁」として生きる時間が止まって欲しくないし、今すぐにでも我々の目の前に出てきて欲しい。もうここまで来ると名前の表記が「御子柴仁」ではなくても、髪がハネの強い金髪じゃなくても、タレ目つり眉じゃなくても、記憶がなくなってても、それでもいいかもしれない。いや最後だけはちょっと辛いかも、私は御子柴と配信内でやいのやいの言い合った時間がすごく好きだったので。その時間が御子柴の中から消えてしまったら少し寂しくはなってしまう。
でももう私が見ていたあの日の「御子柴仁」の地続きの存在で、にじさんじという世界線にいてくれればなんでもいいよ。早く出てきてよ。もうあなたが「御子柴仁」をやめるってんならそれは仕方がない、それでもいいさ。でもそれならそうと教えて欲しいんだ。そうしたらゆっくり時間をかけて私は御子柴仁を思い出に昇華させるからさ。
でも何も言われない限りは私はお前を待ち続けると思うよ。お前の「連れていく」という言葉を信じてるし、お前が言ってたデビューしたあとに変わるであろうことも(本当に少しだけ寂しい気持ちもあれど)それすらも楽しみにしてるし、お前が言うならバカ長配信だって(寝落ちるかもしれないけど)いくらでも付き合うから。何より私はお前がやりたいことをやりたいようにしてるところが見たいんだ。
待ちはするけど少しでも早く出てきてくれ、頼むよ御子柴。