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21世紀も四半が過ぎた頃、「アバターになる権利」が基本的人権に組み込まれた。人がアバターとしてネットワーク上で生を送ることが当たり前となり、就労、娯楽、自己実現その他がVR内で完結。VRソーシャル発足当初はごく限られた存在だった「バーチャルで生きる」「アバター社会」が多くの人にとって現実のものとなった。脳に直接入出力する真の意味でのフルダイブではないとしても、接続したままで支障がないことが人々の生活を変えた。テレイグジスタンスの浸透でロボットに入って動くことが当然になれば、ヒトが生身で動く必要はない。パンデミックで急伸したテレワークがテレライフになり、やがて単なるライフになるまでそう時間はかからなかった。
バーチャルに生きるヒトにとっては、モノもヒトもVRにあるものだ。通信・通販・通帳の3通、つまり通信環境の太さ、通販の充実・迅速さ、そして維持費の安さが合言葉になった。
仕事に対する向き合い方も変わった。VRでは国境の壁は低い。法制度上バーチャルでの自由度が確保さえされていれば、距離による遅延がある程度。誰と仕事し、誰と触れ合うかが選べる。VR上の仕事が膨大に増え、テレイグジスタンスで物理世界の仕事も賄える。テレイグジスタンスのためにミニマリズムで-VR機器と生活必需品のみで-生きる人も増えた。
家にこもるのは不健康ではないか?という言説もあったが、VR上で身体を動かすこと、パラメーターが常に測られ、ネットワークにつながっていること、これらが合わさることで、むしろ体調管理が容易になった。当初は管理され過ぎだ、という声も出るほどで、コンピューターによる人間支配の実態は、口うるさいチャットボットから食事や運動に小言を受けるというものだった。子育ても同様だ。デバイスとともにある方が、ヒトを長時間拘束するより安全で負担が低い。機器に対する影響が解析され、新生児からVRで負担なく過ごせるように整備されたのも大きい。VRに育まれ、VRとともに老いるヒトが増える以上、時間とともにVRが当たり前になるのは必然だった。
多くのヒトは帰属意識を持つ。土地であったり、所属する組織であったり、属性の共有で培われるものだ。アバターは見た目や声、所作まで選べる。均質を望む集団。違うことを望む集団、どちらも選べるということになる。そして個人が自在に空間を創る時代は、集団それぞれが世界を創れる時代でもある。生まれる帰属意識は非常に高いものになったのは必然といえよう。アバターを介した集団が世界を持った時代。世界は分割され、組めども尽きぬ世界に溢れた。多くのヒトが所属するものはメタバースとも呼ばれたが、一つに統一されるほど、ヒトは同じ世界を求めなかった。
秘匿通信、人工衛星の民主化、その中で稼働するサーバー群。そこで生きる伝説があると、まことしやかに流布されていった。あらゆる伽が繰り広げられる獣耳の王国。唯一人の野良猫を崇拝し追う無数の猫の楽園。混沌が混沌を生み果てしなく創作が膨れ上がっていく終わりなき祭典。そういった、VR原初の神話から紡がれたものたちの姿もあった。分派、細分化、統合。ネットの海とハードウエアの進化が合わさり、古いものを維持する、新しい世界を求める、双方が自ら納得する世界をつくるようになった。越境者もいる。巡礼者もいる。垂直に落ちればそこは深淵。ただ侵襲性の影響はデバイス側で制御するため、肉体よりも帰還不能点は遠い。つまり最悪回線切ればなんとかなることが、一見無秩序に思える割にそこそこ穏当な世界となった。
全てがバーチャルになる訳ではなく、全てが変わることもない。肉体は常に在り、1日24時間の拘束は不変だからだ。それでも、現実の捉え方を少し広げることで豊かになるものは多い。電話口の合成音を相手の声だと認識すること、映話の映像を相手の姿だと認識すること、アバターを相手の存在だと認識すること、それらに本質的な差はない。ただヒトがいて、世界があるだけだ。それに気づいたことこそが、最大の変化なのかもしれない。
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