腸内洗浄開始
2日前、嫁と山梨と埼玉秩父の県境にある修験道の神社、大嶽山那賀都神社に行って来た。ぼくの自宅のある神奈川で嫁をピックし高速の中央道を通り、山梨でおり、下道を秩父近辺まで戻るかたちなのだが、山梨の景色は、まさに盆地であたりは低い山々に囲まれ、さらにアップダウンの激しい地形に広がるのは見渡す限りブドウ畑ばかりで、あぁ~山梨まで来たのね、という、異国情緒を楽しませてくれた。朝から少し雨降りであったが、現地到着時には天気予報通り雨が止んでくれた。目的地である神社は駐車場から、なんとひとの家を通って行くのだが、さっきまで雨降りだったせいか、あたりの家にはほとんどひとの気配がなかった。ま~、過疎地か、ほとんどひとが住んでいない、あるいはおじいちゃんばかりなのだろう、などと、余計なことを考えながら2人目的地に進んだ。民家を過ぎ、神社の入り口付近まで来ると急にあたりの空気感が変わった。キリッとひきしまっているのである。これは結界が張られているということなのだろうか。そこを進むとさらなる緊張感が高まり、これ自分なんかが訪れてもいいとこなのだろうか、という、威圧感に襲われた。いままでいろんな神社に行ってきたが、こんな厳格な感じははじめてである。
ここの神社が鎮座する大嶽山はまた役行者様が開山された場所らしく、さらには後の空海さんとも関係している場所だそうで、そういう意味でもなにかしらのエネルギーの高い場所なんだろうかと推測する。駐車場から本堂まで約1キロの山あいの道を登って行くのだが、ここはちょっとしたハイキング気分を味わえて、少し前まで雨だったせいか、そこここにヒキガエルに歓迎?され、本殿まで向かった。
ようやく着いた本殿前には、うちのチワワのごとく、ひ弱でかわいい狛犬さんが鎮座していた。そこからかなり急な階段を上がると本殿に着いた。山奥のそこは宮司さんや巫女さんもおらず、ぼくら夫婦以外はひとっこひとりいない状況で、身体をアーシングするには非常にいいんだろうが、もう少し参拝客がいてもいいのではと思ってしまった。本殿の左脇から、さらに隣の渓谷から登れる道があり、そこを散策していると、また、小雨が降ってきた。幸い、山用の格好をしていたので小雨に濡れながらの散策となったが、小雨に濡れ、山から霧状の蒸発雲みたいのがあたりに立ちこめ、非常に神聖な、浄化された気分になった。嫁がいうには、神社に行って雨が降るとは、神様に歓迎されている印だという。そんな話は初耳であったが、こんなゲスな自分が神様に歓迎されるなどとはありあまる光栄どころか、やはり、身が引き締まる思いとともに先を進んで行った。途中、上のダムからの人工的な滝があり、しばし、そこで小雨の中を2人瞑想をした。さらにそこを進むと小さな橋から「高天原」と書かれた場所があり、その先にある小さな鳥居には禁足地とあり、ぼくは高天原の先にあった滝まで行きたがったのだが、嫁は「高天原」は神聖な領域たがらわたしは行かないとのことで、まぁ、ぼくのような不浄化な人間は、やはり、神聖な場所を汚してはいけないと、滝行きを諦め帰途に着いた。帰りはその神社から秩父経由で帰ることにしていたので、また、下道の山あいをただひたすらにドライブをした。途中、嫁の目的でもあった蒟蒻館に到着。そこでデイとばあちゃんへのおみやげを買い、タイトル画像にあるさまざな種類の蒟蒻を買って来た。その蒟蒻館では入るといきなりそこ自慢の生蒟蒻の試食を勧められ、もちろん、マグロのトロのように旨いそれらを購入し、さらには他の蒟蒻も買うのであったが、そこはドライブインのようにもなっており、買い物客には4種類の蒟蒻とともに、暖かいお茶をただで奉仕してくれるのであった。「旨い」。旨いから、さらに旨かった蒟蒻も帰りに購入したが、なんともうまい商売である。やはり、おみやげでもなんでもそうだが、試食や試着、試聴は商売の最大の施策なのである。その昔、音楽業界に入りたての頃、ビニールでラッピングされたCDのラッピングを廃止し、その会社で発売されているCDを全部レコード店店頭で試聴できるようにする企画書を提出したことを思い出した。内容の聴けないCDに3000円も出すか?と思ったからだ。当たり前のごとく、潔癖症の日本ユーザーや店からはそれら施策は認められないだろうということで、その企画は議論もされず却下されたが、この蒟蒻屋ではないが、食べて旨いかどうかもわからないものに、ひとはお金をなかなか投じてくれないものである。だから、通販がそこまで繁盛しない。どうでもいい話したが、通販に勝とうと思ったら、リアル店舗はそこを意識しないといけない。すべて客の五感に訴えるような体験型の施策を打つべきである。と、話が横道にそれたが、今日、我が家ではタイトル画像のごとく、すべて蒟蒻づくしとした。トロ蒟蒻、蒟蒻のネギ味噌焼き、蒟蒻の佃煮。トロ蒟蒻はまさにマグロのトロのごとく、ネギ味噌焼きはコテッチャンのごとく、佃煮は柔らかいキノコのごとく、すべて美味しくいただいた。たぶん、精進料理ってこんな感じなのかなぁ~と思いつつ、まずは躰からということで腸内洗浄をはじめたのだった。さぁ~、これから、さらなる浄化をはじめるぞ、と。神に恥ずかしくない大洗浄をするのである。でなければ、我が平穏は訪れないのである。すなわち、それは世界平和のためである。ひとりひとりが浄化を進め、できればいまの世界情勢を平穏にするのである。ますは自分から。