「土木広報」といつから言われ出したか
広告・広報・弘報からPR・広報へ
「広報」という言葉は「広告」という言葉と同時期に明治時代に作られた和製漢語であり、どちらも1872(明治5)年に「横浜毎日新聞」紙面の広告見出しとして初めて掲出された。その後、日本で最初の広告代理店とされる1886(明治19)年創業の弘報堂(現・日本廣告社)の社名に「弘報」が現れ、昭和初期まで「ひろくしらせる」という意味と機能を持つ組織名として使われた。
現在の「広報」は1947年3月に各府県に置かれたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)軍政部がPRO(Public Relations Office)設置を提言したことに対して各々組織化された弘報課(のちに当用漢字で書き表せる「広報課」に)が起源である。パブリック・リレーションズ=広報であり、日本広報学会の2023年の定義は「組織や個人が、目的達成や課題解決のために、多様なステークホルダーとの双方向コミュニケーションによって、社会的に望ましい関係を構築・維持する経営機能である。」となっている。
土木界では、1948年1月に建設院設立とともに総裁官房弘報課、1952年8月の建設省組織令によって大臣官房広報課が組織されたが、分掌は「所管行政に関する啓発及び周知宣伝に関すること。所管行政に関する図書の収集、整理、保存及び利用に関すること。」と行政情報の提供・収集に限られていた。
1960年8月、新たに広報室が設置され、同室内に「建設事業の遂行のための広報活動を更に一段と強化し、かつ、関係諸団体との連絡調整を図るべく」建設広報協議会(現・一般社団法人建設広報協会)が設立され、ようやく「広報」の体制が整えられた。
建設広報協議会が発行する広報誌「建設のうごき」1962年12月5日号に「初の土木広報研修会開かる―北海道土木部主催―」との記事がある。奇しくも後に「土木の日」となる11月18日に「建設広報の理論と実際」「建設省の広報活動」「現場における土木広報のついての発表」「土木広報のあり方についての討論会」が行われ、翌日は「広報誌の編集について」講義、とのこと。
「土木広報」と言われ出してから、60年以上が経過しているのである。