ガラスの壁の問題は自分自身にあったと女性が発言することの意味
ブルガリオウロラアワードである方が
ご自身の経験として、「ガラスの壁」の問題は自分自身の中にあったというスピーチをされていた。
ただ、これは環境について言及されていないスピーチだったので、とても危ういように感じてしまった。
これについて考えてみた。
もちろん何でもガラスの壁のせいにしてはいけない。
前提として、一個人の成長の観点からは、「女性だからこういう目に遭うのだ」と自分が上手くいかなかったことを環境のせいにしすぎてはいけない。
変に被害者意識だけが強くなって、失敗の原因を常に女性であることに求めていたら、彼女の成長はないし、周囲からも見放されることは間違いないだろう。
問題を個人の責任であったと帰結させる物言いの危うさ
一方で、本当に「上手くいかないこと」は個人の問題として収斂させていいのだろうか。
そのスピーチによって、一部の女性は、社会のせいにせず、個人の問題と捉え、精進する大切さを理解するだろう。
しかしそのスピーチを聞いた、その他は「ガラスの壁を取り払う努力を社会がする必要はない、なぜなら、結局は女性個人の問題であり、社会的課題ではないから」と理解するだろう。
また、そういった、「実はガラスの壁はなく、女性の努力で解決できる」というエピソードは大変男性社会受けがいい。なぜなら変化しなくても、問題の根源を女性に起因できるからである。
だが、ガラスの壁は社会的課題なのである。見えないからガラスの壁なのである。個人の問題であるとして頑張れる人もいる一方、ガラスの壁がなければ、もっと多くの人が障壁に阻まれることなく精進できるのである。
全ての問題が女性であることに起因することはもちろんないが、見えないが女性であることに起因する不利がたくさんあるのである。
例)男性育休取得率が上がったら、女性は復帰を早めて、より昇進しやすくなるだろう。
上場企業の女性取締役の数が数%の国において、なぜ女性が半数以下でもなく、数%なのか。個人の努力不足であったと帰結させていい問題ではない。
こういった問題はよく起こる
例えば、恵まれた家庭環境に育った人は当たり前のように、「普通に勉強していたらMARCHレベルの学力はつく、それ以外はサボっていただけ。問題は個人にあり、個人の責任である」という発言をしたりする。
一方で、その恵まれた家庭環境・前提がない場合も多くある。
地方にはまだ、女性が大学進学、ましてや県外に出ることをよしとしない地域が多くある。そういった環境や地域で育ったときに、それが当たり前だとして育ち、学力があってもMARCHレベルにいかないケースや、大学進学しないケース、また勉強には重きをおかないで部活動やアルバイトに精を出すパターンもたくさんある。
また家庭内暴力、校内暴力、病気や親兄弟との関係悪化など、多くの要因によって、勉強に集中できない環境があったりする。
スピーチの影響を考える
そこで、そういった環境出身の学生が「困難は、社会ではなくて、個人にあると思いました。環境のせいにするのをやめて努力したら上手くいき、MARCHに合格しました。」とスピーチしたとする。
すると何が起こるか。
同じような環境出身の一部の学生にとっては、「環境のせいにせず頑張るということの大切さ」として捉えられるかもしれないが、
そうではない環境で育った人からすれば「やはり、恵まれていない環境でも頑張れる人がいるのだから、個人の問題であって、その人が頑張るか頑張らないかの違いであろう。個人の努力に依存するのだから、彼らを社会的に支援する必要はない」となるのである。
つまり同じ環境出身の救いの手を求めている、運良く頑張れている人以外が悪影響を受けるのである。
個人の何気ないスピーチであるが、女性の活躍推進に努力する人からすると、まるで味方に背中から撃たれたような攻撃のされ方なのかもしれない。