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#7 イチロー、「かごの中の美しい鳥」- 2013〜2014年

2012年秋のニューヨーク観戦後

2012年秋、10数年ぶりに、そして私の初メジャーリーグ観戦として、イチロー選手を観にニューヨークへ行った

10月のニューヨークは寒く、それでもセントラルパークでリスを見ながらホットドッグを食べ、ジョン・レノンが撃たれたダコタハウスへ行き、友人推薦のパンケーキレストランへ行き、自由の女神を観にリバティ島に上陸し、グラウンド・ゼロへ行き、ブロードウェイでオペラ座の怪人を見、メトロポリタン美術館とMoMAへ行き…

ニューヨークが初めての方はこちら、を可能な限り実践したような旅だった

敵地デトロイトへ移動したヤンキースは勝てず、結局4連敗で敗退していた。イチロー選手の契約はどうなるのか、不安な毎日が始まった

野球観戦から遠ざかる

そして時を同じくして、経過を視ていた病気について、残念ながら進行が止まらず、切除手術をするしかないと診断された。もう2年以上改善なく付き合っていて、うんざりしていたこともあり、手術自体に躊躇はなかった

イチロー選手にも会ったし思い残すことはない
大袈裟ですが

手術にためらいはなかったが、その医師と信頼関係がなく(質問に答えてくれない/予約日に代診が続く等)、病院を変えるチャンスを待っていたので、迷わずセカンド・オピニオンのための診断書を頼んだ。診断書の宛先は、この病気で最先端手術を行う医師として著名な方で、ようやく病気のことを打ち明けた母が、医療関係に勤務する友人に相談して見つけた医師だった

セカンド・オピニオンの結果、その最先端手術を受けられることになった。レーザー光に反応する薬剤を静脈注射した後に、レーザー光線を病変部に照射しがん細胞を壊すという治療法で、出血や癒着を避けることができる。しかしその代わりに、その薬剤によってあらゆる光に対して大変過敏になり、肌に強い光が当たると火傷状態になってしまうため、薬剤が抜けきるまで、遮光生活を送る必要があった

2013年2〜3月に入院と自宅療養で休職した。入院中は真っ暗な部屋で過ごし、退院後も日中は外に出ず、日が落ちて暗くなってから出るという生活をした。ブラッド・ピット主演映画「リック」みたいだと思っていた(先天的な病気と同じにしてはいけないが)

4月から無事復職したが、強いライトや太陽光が直接肌に当たると水ぶくれになるため、気を使う日々だった。当時、毎日一緒にランチを食べていた先輩方には、レストランで窓側に座らないようにとか、日当たりの角度とか、色々気づかってもらったことを思い出す

いつもアームカバーをしている私を「女優でもあるまいし」と揶揄した同僚に「人には色んな事情があるんですよ」とやんわり釘を刺してくれたり・・・病気の詳しいことは話さなかったのに、優しさが本当にありがたかった

私はこの光過敏症によって、屋外での活動が制限付きになってしまった。強い太陽光を避けられない場所、特に車での移動、ビーチや標高が高い所、そして野球を始めとする屋外スタジアムから遠のくことになった。医師からは3ヶ月〜半年と言われていたが、私は元々日焼けに弱かったことも影響したのか、もう大丈夫だと判断できるまで、およそ1年半かかった

日米通算4,000本安打

手術を受ける前には、イチロー選手のヤンキース残留が決まっていた。ホッとしたような気持ちを覚えているが、この後のことを知っていたら、脳天気に喜んだりはしなかっただろう

2013年8月、私が屋外生活に制限がかかっている頃、イチロー選手は日米通算4,000本安打を達成した。「8,000回以上の悔しさ」の中で成し遂げられた偉大な記録だった(いつものごとく私は涙した)

そして日本でもピート・ローズ氏の記録と発言が報じられるようになっていく。私は気にしていなかった。彼本人が言っているように前提が違う。だから彼の記録がイチロー選手より劣ることになるわけでもない。それでも抜かれたら「何か」悔しいんでしょ、としか思っていなかった

ちなみに右上、1,000本安打は現地観戦
東京ドームのレフトスタンドで、見知らぬおじさんたちとハイタッチした

私は、誰かと比較してというより、どこの場所であれ、イチロー選手がプロとして積み重ねた1本1本の安打が4,000本に達し、その数字が参考までにメジャーリーグ記録に迫ろうとしているという事実に対して、素晴らしいと思っていた。そこにある準備と努力とともに

「かごの中の美しい鳥」

その後、2014年は難しい起用が続いた。いつ、どう起用されるのか、一貫性が感じられなかった

ベンチから真っ直ぐ戦況を見つめるイチロー選手を、まるで「かごの中の美しい鳥」のようだと感じていた。自由に羽ばたかせてくれたら、いくらでもみんなを魅了できるのに

誰が作った基準で、そんな窮屈なところに閉じ込めておくのか。その程度の基準をイチロー選手に当てはめないでほしい、ちゃんと見ろ、理由を説明しろ、出してくれ、と私はいつも憤っていた

もちろん、他の選手も含めたあらゆる契約によってそういうことが成り立ってしまっていたのは十分承知しているが、今でも当時の監督、ジラルディ氏を見ると腹立たしい気持ちで胃がキリキリするし、イチロー選手の31番ユニフォームを見ると胸が痛い

しかし、そんな風に私が憤っていようが、イチロー選手は変わらずに黙々と準備を重ねて出場機会を待ち、ドアが開けられた時には、変わらずに美しく応えていた

そんな姿を見守りながら、自分も頑張らないといけない、と思った

そして、イチロー選手にはもうニューヨークにいてほしくない、いてはいけない、と思った。どんなに人気球団で歴史があって格好良くても関係ない。このオフでヤンキースとはお別れして、他のところへ飛び立ってほしい、とひたすらに願っていた

友人は知っているが、私は今でもヤンキースロゴとデザインを避けている。MoMAが認めようと、あのキャップは絶対かぶらない。根に持つタイプなのだ

鳥はマイアミへ飛び立つ

イチロー選手は2014年シーズン終了後に再びFAとなり、イチロー選手の所属球団が決まらないまま年を越すという経験を、初めて味わった(私の経験ではなくイチローさんのだよ?と自己ツッコミ)

サンディエゴ・パドレスやサンフランシスコ・ジャイアンツなどが移籍先として名前が上がっていたと思う。ようやく光過敏が治まり、次の夏休みは西海岸ですね!どこに行けばよいですか!と、ワクワク前のめりになっていた2015年1月19日、思いがけないニュースが入ってきた

Facebook投稿への友人たちのコメント
行くこと前提

全く想像もしていなかった、マイアミ・マーリンズ
日本から一番遠い場所にある球団…

実はマイアミには縁?があった。前年、勤める会社でグループ再編があり、マイアミに本社がある企業が、私が出向する会社の親会社となっていた。役員がマイアミへ1泊3日の出張をするたび、「遠い」ことと「暑い」ことを教えてくれていた。でかいトカゲがいる、とか(子どもの会話みたい)

私も事業報告を英語で作成することになったりと、それなりに巻き込まれていた。なので同僚が「ちょうどいいじゃん」とか「本社も」とか書き込んでいる

遠い…暑い…
別に本社の人には会いたくない…

次に思ったのは、マイアミ、オレンジ色のユニフォーム、イチローさんぽくない…

びっくりしすぎて、考えるポイントがズレている。起用法とか、ナショナル・リーグであることとか、大事なことがさっぱり思い浮かんでいない

そうやって、ひとりオロオロしているうちに、1月29日、日本で入団会見が行われた。日本で行われるという異例の待遇の中、イチロー選手は晴れやかな顔で、私たちの大好きな51番を掲げていた

そんなイチロー選手を見て、起用法とかそういうことは後回しだ。それはイチロー選手が頑張っていくしかない。私たちファンはただ、ずっと応援するだけだ、と改めて思った

記者会見場がどこか知っていたけど、行かなかった
今なら仕事をすっ飛ばして行く。
会えるとかではなく、なんとなく…

何より、笑顔が嬉しかったなあ

次回、マイアミへ行く!
マイアミは2年連続だし、経験が濃厚なので、長くなります(予告)

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