続けて再読『満月珈琲店の星詠み〜秋の夜長と...〜』
昨日こんな記事を書いた。
読書もブログを書くのも、いったんストップしてしまうと気が乗らなくなるけれど、読み始めたり書き出すと勢いづいてくる。
それはいわゆる「やる気」というのがあるわけではなくてやるから出てくるものなのだ、ってことなのだろうな。
読むことも書くこともなかなか継続はできなくて、単なる趣味の域を出られない。
それはそれで私の性分だったりするから、いちいち気にしていても仕方ないんだろうけれど、「星読みをしている」というのであれば、日々それなりの時間をとって星を読んだり、それをなんらか書き起こしておくとかする必要があるんじゃないだろうか、という謎の思い込みルールで自分を苦しめている。
「星読み」は「星読み」でも色々なのだ、
大切なのは自分がなんのためにそれをしているか。
読書という趣味のひとつをとってもそうだ。
「本好き」というからにはそれなりの知識があって、
それなりの量を読んでおかねばならない、という型にはめたくなる。
いや、そもそもそこに基準はあるのか?
誰かや何かと比べるから苦しくなる。
「満月珈琲店」シリーズをはじめて手に取ったのは、
ちょうど星読みを始めた頃だった。
それだけ星読みや占星術が一般化してった頃だから、
運命でもなんでもないのだろうけれど、
同じ作者の別のシリーズをなんとなしに買っていたことに後から気づき、
ついつい運命かもと思ってしまったものだ。
そこからちょっと星読みに行き詰まり、でも勉強のためもあるからと読み続けていたけれど、手元にあったのは今、読んで気づきを得るためだったのかもしれない。
『〜メタモルフォーゼの調べ〜』は、
まさに冥王星が山羊座を離れる今だからこそ再読する必要があって、
でもその次の『〜秋の夜長と月夜のお茶会〜』はオマケみたいな感じだから今じゃないのかもなぁという気がしていたのだけど、いやいや「秋」は今だった…!
今朝ふともう一度手に取って、一気読みしてみて、
そうやって言い訳して、自分が本当にやりたいことに蓋をする癖があることをまざまざと突きつけられている。
たかが小説、されど小説…
いろんなシンクロが、心にしていた蓋を揺さぶってくる。
いくつかの偶然が重なって今年の夏に読んだ『モモ』だけど、
この小説にも登場していたことをすっかりと忘れていて、読み返してびっくり。
さらに登場人物の年齢が近いこと(というかまた一歩近づいてしまった)、
蟹座火星という共通項もあり、燻ってる今の状況も近いものがある…
だからって、あんまり共感しすぎて、私も現状を変えなくちゃ、
ブックカフェとかやらなきゃ、とかなるのは苦しいし単純すぎ。
そういえばエンデは蠍座なのだ。蠍座といえば冥王星。
物語のエピソード的にも前作「〜メタモルフォーゼの調べ〜」の方が
インパクトがあるものが多かった。
とはいえ今作の登場人物たちもなかなか波瀾万丈な人生を送っている。
それだからこそ「満月珈琲店」に出会ったのかもしれない。
カルマの解消的な?
そう考えたら私は特別な能力もなければ特別な苦労も努力もしない人生。
そうかといってささやかな日常に幸せを感じ続けることも難しい。
「特別感」は、獅子座の病かもしれないな。
対して蠍座/冥王星は潜在的な能力を秘めていて、いろんな出来事があってそういう力が発揮されるけど、最終的には穏やかな日常に幸せを見出す、
みたいなところがありそうな。
ところで「〜メタモル〜」のほうと混線してしまうけど、
私が生まれてこの方の冥王星のトランジットは
自分の太陽星座とコンジャンクションしたりしない。
とある有名な同い年の占星術家の方は山羊座だから、
ここ十数年の山羊座冥王星期のあれやこれや経験と実感が豊富だけど、
私はなんでこんなに大変なのか教えてほしい…。
いや、外圧というよりも内側のあり方の問題だというのは、
外側(というか内側の現れ)から総スカンをくらい始めてることにやっと気づいて、ようやく少しずつ自覚してきた。
無自覚だった獅子のプライド、意外と強かった防御力が邪魔をして、認めたくなかったのだ。
それとも冥王星が水瓶座に入ることで、ドラゴンテイルとICにコンジャンクションしてくるものだから、そっちの影響か?
どっちにしても相当に防御力を削がれているから、乗り越えられるのか不安すぎるけど、どこかで「抵抗を手放す」と言ったばかり…。
どうしても戦う方にスイッチが入りがちなのは、蟹座火星?
それとも旧式の脳の仕業。
これ、田舎の農家で育った私には結構切り替えが難しい、というのも言い訳か。
とはいえ幼少期、本気で命の危険やお金の心配をするような状況に置かれたわけではないのに何故だろう?
あるいは、本気で生き延びようという本能にスイッチが入ることがなかったから、今でもうだつが上がらないのかもしれない。
そんなことを言っていると、そういう状況がやってくる…
その後の40年というもの漠然とした不安の中で過ごして、もう十分だよ。
個人天体の補習
どうも話が横道に逸れがち。
本の中の気になったところを引用しながら、気づきを深めていきたいと思っていたのに。
そうだったそうだったと思いながらパッと開いたページから飛び込んできたところに、ちゃんと必要なテーマがあった。
うわっやばっと、私も思ったよね。
思い当たる節がありまくり。
そも、この巻の各章のタイトルが天体年齢域と関わっている。
最初のこそ「木星」となっているけど、「火星期の終わり」でもある。
火星期でやり残したことを終えないと、「怠惰」な木星期に陥る恐れ…
あーヤバイこわい。去年の私はそれを見て見ぬフリしようとしてた。
というかこの火星期なのか冥王星山羊座期なのかに、補習が一気にやってきた。
学生時代こそ補習とかはあんまり受けたことがなかったけれど、
それは単に落第寸前ギリギリのところをなんとかすり抜けただけ。
もっとがんばって高いところを目指そうとか、これだけは自分の能力と言えるように努力するとか、そういうことができなかった。
それは太陽コンジャンクション、つまりコンバストによる水星の機能不全なのか、目標を設定することとコツコツ努力することへの苦手意識は克服できていない。
「目標」や「ビジョン」という言葉を前にすると頭が真っ白になる。
金星も補習案件。
乙女座金星もフォールだということを、この年齢域が過ぎたばかりの時に知って、なるほどと納得したものだ。
恋愛とか美容とかファッションだとか、過ぎたるは及ばざるが如し…
半ばあきらめて過ごした太陽期の後半から約12年に渡る補習がやってきた。
それは太陽獅子座だから自動的にそうなったものだと、そして太陽期が過ぎたら満たされなくなってくのも仕方がないのかも、と思っていたけど、それじゃぁやりきれない。
太陽をやろうと思ったら月を満たさなきゃいけない。
私が星読みを学び始めた時は、それと真逆のことが言われ始めてた時で、そっちに囚われているフシもある。
というかそれこそ「外側」の世界。
ほんとの本音を無視して、強くあろうと取り繕っていただけ。
本音を知っていてそれを実現しようとすることこそ、ほんとうの強さなのに、それを知らなかった弱い自分をひた隠しにしようとしてた。
それは弱さとして外側に映っていたんだろうなぁ、恥ずかしいな…
まだまだ及第点をもらえなそうだけど、補習をしてもらえるだけありがたい?
そんなこと、思いもしなかったけれど、冥王星の「愛」とはそういうことなのかなとふと思った、水瓶座冥王星時代のはじまり。
ところでこのテーマは次の「〜月と太陽の小夜曲〜」の伏線じゃないか。
全部読み返したくなってくるからこわい…
それも月射手座の欲求だったら従ってみるのもよいけど、
とりあえずは新作を楽しみに待っていよう。