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自分を赦すということ

今日はちょっと重い話になるかもしれません。
なので、そういうの苦手!という方は、ここでページを閉じてしまってださいね。



先日、急に思い出したことがありました。
ずっと忘れていた というより、忘れてしまいたくて蓋を閉じていたことなのかもしれません。
いえ、もっと言えば、無かったことにしてしまいたかったことだったのかもしれません。
なぜなら、決して赦すことのできない自分を見るのが苦しかったから。



もう10年以上前のことになります。

自営を始めて、このブログを書き始めてから3年くらいだったかな。
ブログを通して友だちになった数名の人たちと、食事会をしたことがありました。
その中のほとんどの人とは直接やり取りしている仲だったのですが、一人だけ全く初めましての人がいました。
その会を取りまとめてくださった女性のブログ友だちでした。

その場でのお話の中で知ったのですが、彼女は私と同年代で(少し年下だったかも)、シングルマザーでお嬢さんが一人いらっしゃいました。
そして実は乳がんを患っていること、でも治療するお金がないので、病院にはかかっていないことを知りました。
もしかしたら、西洋医学をあまり信じていなかったかったという理由もあったかもしれません。
当時は、患部が膿んだりするものの、今すぐにどうこうという状態ではなかったようでした。


それからどのくらい経った頃なのか、そしてどういう経緯でそうなったのか、はっきり覚えていないのですが、その女性の家に別の友人と二人で伺うことになりました。


同行した友人は、先述の友人たちとは別ルートで、やはりブログを通して知り合った仲でした。
その友人と乳がんの彼女がどういう経緯で知り合いになったのかについても、今では記憶にないのですが、乳がんの彼女から「一度会いに来てほしい」という連絡があり、二人で出かけることになったのは覚えています。

家に着くと、当時小学校の高学年だった彼女のお嬢さんも一緒にいて、彼女の病気のことなどいろいろ聞きました。
これからも病院にかかることはできないこと、
そして自分に万が一のことがあったときは、お嬢さんのことは親せきのおばさんに頼んでいること、など

文字にするととても重たいことなのですけれど、彼女はもうすべて受け容れていて、落ち着き払っていたことを今でも覚えています。
ただ、こうして闘病している姿を間近で見ているお嬢さんにはかわいそうなことをしている、申し訳ないと、その気持ちは痛いほど伝わってきました。


他愛もない話も交えつつ数時間過ごしたのち、夕方になって二人で帰路に就いたのですが、


それからしばらくの間は、なぜ彼女は私たちに来てほしいといったのか?という問いが、ずっと頭を離れませんでした。
そして、もしかしたらお嬢さんに力を貸してほしい、そんな想いがあったのでは?という考えが何度も浮かんできて、自分には担いきれない重さを感じてしまったんです。

当時は私自身、自分の生活をしっかり築くことができていると自信を持って言えるような状態じゃなかったし、子育ての経験もなく、子どものサポートなんてとてもできない。
彼女の真意は全く分からない中で、無意識のうちに自分で勝手に重い責任を背負い込んでしまったんですね。

そして、その重さに耐えることができず、その後彼女に会いに行くことはしないまま、放り出してしまったんです。
一緒に行った友人とも、その後一度くらい連絡をとったかもしれませんが、結局そのまま会うことはありませんでした。

その後数年間は、彼女のことが気になることは何度もあったのに、責任を逃れたいために、私から二度と連絡をすることはありませんでした。
そして彼女からも連絡がないまま、そのうちにその出来事も記憶の中に埋もれていきました。


でも、このタイミングでこうして思い出したということは、恐らく忘れたいけど忘れられない記憶として、私の心の奥底に居続けたのでしょう。
そしてそのことを思い出した時、どうしようもない後悔や自責の念でいっぱいになって、息ができないくらいでした。
いえ、むしろ息ができなくなってしまえばいいのに!とも思ったくらいです。

こんな卑怯な自分なんて、いなくなってしまえばいい!
なぜ、こんな自分が生きているんだろう?
本気でそう思いました。
そして、10年以上の間、私は無意識の中でずっとずっと自分を責め続けていたことにも気づきました。

どうしても自分を赦せない!こんな自分でどうやって生きていけば良いの?
神さま、なぜこんな苦しみを私に与えるのですか?
どうか助けてください!

もがくほどの苦しさの中で、ある瞬間、ふと一つの質問が浮かんできました。
なぜ彼女は「会いに来てほしい」と言ったんだろう?と。
私が考えていたような重責を、本当に彼女は私に負わせたかったのだろうか?と。

出てきた答えは「No」でした。


今もあの時の彼女の真意は分からないけれど、いまこの瞬間、恐らく既にこの世にいないであろう彼女が望んでいるのは、そんなことではないはず。

もしかしたら、ただ話をしたかっただけなのかもしれない。

そしてもし、私が考えたように、お嬢さんのことを何らかの形で託したかったのだとしても、そして私はそれに応えられなかったけれど、すべて既に終わってしまったこと。
もっとできることはあったかもしれないし、応えることができなかった私が間違っていたのかもしれないけれど、あの時の私にはそれが精いっぱいだったし、もうそこに戻ることはできない。

起こったことは変えられないけれど、もし今、私にできる精いっぱいがあるとしたら、それは何だろう?

そう問いかけた時、すぐに答えが出ました。


あの出来事をなかったことにするのではなく、彼女の存在に、彼女と出会えたことに感謝すること。
そして、お嬢さんの幸せを願い祈ること。
それが今の私にできるたった一つのことだと気づきました。

そしてその時、私の中で苦しみが形を変え、何かに昇華されたような気がしました。


後悔は今もあります。
たとえ何ができるか分からなくても、会いに行けば良かった、もっと話を聴けば良かった、もっとそばにいれば良かった、
そんな想いは今もあるし、きっとこれからもずっと残り続けると思います。

でも、彼女を、私を苦しめた存在としてしまっていた在り方から、感謝したい存在へと変えられたことが、とても尊いことのように感じられていて、その有難さを想うと涙があふれてきます。


人と人との出会いの意味なんて、本当には分からないことの方が多いのかもしれません。
でも、どの出会いも必ずお互いにとって必要で、この上なく尊いものなのだということは、なぜか信じられます。

彼女との出会は、私にとてつもなく大切なことを教えてくれました。

自分を赦すとは、まっさらで白一色の自分になることじゃない。
純白でない自分がいることを知ったうえで、その自分が他人にしてしまった手ひどい仕打ちに対する後悔を自覚したうえで、
それでもなお、その後悔を持ったままの自分を受け容れ、抱きしめてあげること。
その自分を幸せにしてあげたいと思うこと、なのですね。


自分を赦すということは、こんなにも深く温かいものなのだと知りました。
そして、きっともっと深いものであり、一生をかけて続けていくものなのでしょう。


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