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graveyard of zal

㈠前書き

私は、陶を扱う彫刻家として活動している。作品のテーマは、魂の器としての身体、プリミティブな神話的思考、意識と無意識・聖と俗の狭間の表現である。今それらの表現の内には、この世に存在しないとされる半獣や精霊たち、失われた憧憬を創出し、儚く朽ちていくものを焔の焼結によって留め置きたい、そうすることによって束の間の永遠を見出したい、という欲求がある。願わくは、土から人間を作り、貴い魂を星座として夜空にかけた神々の行いになぞらえ得る業をなさんことを————この切なる願いが、私の作品制作の根 源となっている。

さて、このテキストは、2022年10月4~7日の間、金沢21世紀美術館シアターにて展示の作品「graveyard of zal」着手するにあたっての所感を書き起こしたものである。メリーゴーランドのように回転する光景を作りだし見てみたい、といつ頃から思いはじめたのかは、実ははっきりとしない。歴史が繰り返されること、魂が輪廻していること、それらはまさにメリーゴーランドが果てしなく回転し続けるかのような光景なのだろうかと想像したのは、十代半ばの頃だったと思われる。このように、はじまりは定かではないが、日常の些事から遠く離れた場所に浮かぶ朦朧とした夢想のただ中に、メリーゴーランドのような回転のイメージは星のように静かに瞬いていた。 遥か頭上で瞬いていた星を、地上に降ろそうとする私に共鳴してくださったのは、今作の共同制作者・蓑輪紀人氏である。 蓑輪氏は石川県金沢市在住のサウンドクリエイターであり、舞踏家や彫刻家との実験的な コラボレーションも多く、そのキャリアは国内に留まらない。氏は自身の音楽のルーツに ついて、次のように語っている。

『私が生まれ育った金沢には「兼六園」があります。
日本庭園の基本である“築山林泉式”という様式で山に見立てた築山を作り滝水を落とす。 そして池や流れを写し出すいわば自然風景を凝縮した庭園です。
さらにこの“築山林泉式”は“鑑賞式”と“回遊式”に分けられます。 「兼六園」は歩行しながら多角の眺めを楽しむことの出来る“回遊式”です。 作品の中には知らず知らずの内、回遊式庭園を表現していたように思えます。
古(いにしえ)より日本人はひとつの空間に大自然を凝縮した世界観を見出し,四季を愛で、風や雨音に耳をすませ素朴な喜びを感じ取っていました。 雨の日に庭では、木の位置、高さ、葉の形、大きさ、配置など立体的にとらえることが出来、交響曲にまさるとも劣らない雨音の音楽を体験できます。私の音作りは風景を音楽にした作品ではありません。 表現する事が難しい日本人の感性を音楽で伝える事に挑みます。』

氏の音楽は、たとえるなら、鯨の歌声や大気の動きのようである。人間の可聴域は低い音で 20Hz、高い音では20kHzくらいといわれている。聞こえているはずなのに、私たちが認知するに至らない音は、いったいどれほどあるのだろうか。おそらく、聞こえずとも私たちに影響を及ぼす周波数は多く存在し、それらの気配を察知してきた経験が声を持たない自然物への畏敬の念として、日本人の心性に育まれてきたのではないだろうか。 人間の五感では測ることのできない、あるがままの大気や水の還流、広大な宇宙を巡る光の流れを予感させるような響きが、蓑輪氏の音楽にはある。生命が繰り返してきた魂の輪廻を模した空間を作るため蓑輪氏の“回遊する”音は本制作に不可欠なものであり、共鳴が起こったこと自体が自然なことであったように思われます。

㈡螺旋上昇する天国・反復する地獄
今回の取り組みでは、蓑輪氏の音の力を借りながら、物語を紡ぐ緩やかな回転体を陶によって創出することにある。
出産、成人、婚姻の契り、病いや老いによる——死、それを悼む葬送といった人間の営みに寄り添う通過儀礼は渦中にある個人にとっては特別なものであるが、宇宙的な時間軸から俯瞰してみれば堆積されてきた時間の連続性を構成する1つの点にすぎない。
一回的であるはずの自分の生が、このような大きな流れの反復の内にあることを、私たちは経験的に直感している。 一つ一つのイニシエーションの点は、時空を超えて生の線となり、その線はやがて歴史の弧を描く。それ自体がDNAの螺旋でもあり、過去と未来の両輪に支えられて私たち の“現在”が、この宇宙に浮かんでいるのではないだろうか。
因果は、この反復に起因するだろう。輪廻転生の宗教観を持つ私には、この夢想があながち的外れであるとは思われない。
「永遠回帰の神話」を記したエリアーデは著書「永遠回帰の神話—祖型と反復—」の中で 以下のように述べている。

 
[我々が古代人の一般的行動を観察する場合、次のような事実に突き当たる。即ち、外界の 事象も人間の行為も、正しくいってなんら自律的本来的な価値を持たないということであ る。事象とか行為とかは、一つの様式、また他の様式に従って、それらを超越する実在とかかわりあうゆえに価値を獲得し、そのことによって真実なるものとなる、ということである。無数の石の中で、一つの石だけが聖なる石となるのは―そしてその故にたちどころに存在がこの石に浸透するに至るのは―、その石が hierophany(聖なるものの顕現、高きもの、神の示現)となり、もしくはマナを獲るからである。またその石が神話的聖なるものの顕現、高きな技を記念するからである、といった具合である。つまりこの対象物は、それ自らをその環境から引き離し、それに意義と価値を与える外的な力の容器としてあらわれる。(中略)それが象徴的な形状により、またその起源によって呪術的、もしくは宗教的な力が注ぎ込まれ、「貴い」地位に引き上げられるのである。即ち、空から落ちて来たと主張される隕石、深海から上がってきた真珠、といったたぐいである。また他の石は、祖先の霊魂の憩いの場であるゆえに、あるいはかつて神がそこに顕現せしゆえに、あるいはその石に供犠がなされ、神への誓約がなされたゆえに、貴いものとなったのである。
さてここで人間の行為の問題に立ち戻ろう。―これらもまた、純粋に自律作用によって起こるものではない。行為の意義とか価値とかは、その生な肉体的データとかかわるものではなくて、原初の行為を再生し、神話的類例を反復するところの特性と関わるものである。食物摂取は単なる生理学上の活動ではなく、それは神との交わりを更新することである。婚姻と集団的な大騒ぎは神話的原型を反響する。それらは神々、祖先、あるいは英雄によって、その原初の日に清められたものなるがゆえに、繰り返されるのである。意識的行動の諸事項については、「単純文化人」や古代人は、あらかじめ他者、人間ならざるある他者によって実行され、生活された行為をしか承認しないのである。その為すところのものは、すでに以前になされたことでなければならぬ。その生活は他者によって創められたわざの無限の繰り返しなのである。]

婚姻も戦いも病も死も、すべて神々の歩んだ道である。古代社会から大きく変容した現代の社会においても、これらの通過儀礼は、強烈な存在感を保ち続けており、これらに向き合うことは特定の年齢域だけに限定されるわけではなく、生涯にわたる課題とさえみなされている。人々はこの轍を辿ることでしか、新しい物語を創り出すこともできない。 私たちは、永遠の回転体=運命の輪の上を転がり、その軌道上で起こった別れは、再び出会うことで贖われるだろう。聖と俗・天と地・昼と夜を繰り返すことで、緩やかな変化を伴いながら螺旋状に進むことが、宇宙世界の意志なのではないだろうか。(太陽系も螺旋を描いて宇宙を進んでいる)
その回転は、一人の人間にとっては、途方もなく巨 大であるがゆえに、把握することは難しい。だが、終わりは始まりに連なり、始まりはまた終わりを迎え、運命の輪の回転運動は必ず繰り返されていく。エリアーデによる記述を読めば、あらゆる喜びや苦しみは、すでに原初の私が乗り越えたものなのではないかと夢想してしまう。
私たちの生活の中にも、繰り返しは観察できる。たとえば父母と同じ過ちを踏襲してしまう場合。父親のような男性とは結婚しないと決めていたのに、結局は父親とよく似 た男性と結ばれてしまう……そして、おそらくは母親も、母親の母親も、同じことを延々繰り返してきたらしい、などということは、ありふれた世間話の1 つだろう。
さて、宇宙的規模の螺旋は人間の尺度で測るには途方もなさすぎることは先に述べた通りである。では、同じ現象を繰り返してしまうのはなぜなのか……ここに私は、円環としての地獄の存在を予感している。 地獄とは悪行を為した者が死後に辿り着く場所である。そこではありとあらゆる責め苦が、与えられ続けるという。これが、どの宗教にも共通する地獄に対する認識であるが、 私が予感する地獄とは、生きているこの世にあるものである。そして、その本質は、苦痛を与えられる点にはない。強者から弱者への強奪や凌辱は歴史を重ねるごとに最悪を更新し続けてきた。 また、20世紀以降は自然災害に起因する貧困も苛烈さを極めている。結果、溢れかえる持たざる人々・傷を負った人々の影にこそ、地獄は広がってしまうだろう。人間の弱さ・卑しさ・傲慢・怠惰な心性は、地獄の中でこそ深く根付く。これがたった 1 人で生きる孤独な人生に起きることならば、「死」という救いもあるだろう。だが往々にして、1つの人生は他の数多くの人生に、否応なく結び付けられているものである。その人間に深く関わりあった人間ほど、彼あるいは彼女の地獄にどこまでも引きずり込まれることになる。特に、血を分けた家族の地獄ともなれば…そこでは新たな役者が同一の役名を襲名していく仕組みになっている。
こうして、地獄は数多の人生を跨ぎ、続いていく。 もちろん、地獄を終わらせることは可能だろう。しかし、地獄に生まれ育った者には、地獄は終わらせられ得るということ自体がわからないし、それに気付いたところで、終わらせる手立てがない場合の方が多い。地獄はあくまでも個人の内的世界であるが、社会的な手助け・外部からのアプローチがあれば、解消していくことが出来るのかもしれない。が、ここに地獄の恐ろしい一面がある。
地獄の臭い・暗さ・温かさに慣れてしまった人間にとって、太陽の光は、その下に立っているだけで、目と肌を灼く脅威である。『鏡の国のアリス』の中にある、ハートの女王の有名な一説を引こう。 「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない。」 地獄を抜け出した人間が最初に突き付けられるのはこの事実であり、それを引き受けることは汚泥にまどろんでいた身には大層荷が重い。痛ましい光の中、未知の世界を歩むよ りも、よく知った絶望の中で浮き沈みする方を選択することを、迷いなく断罪できる強い 人間はどれほどいるだろうか。
地獄の臭いには、簡単に慣れてしまうし、泥濘の中、目に映る景色が変わらずとも、自分自身を憐みつつ愛することは充分にできるだろう。 私が、変容のない円環を地獄と呼ぶのは、先にも述べた通り、進展する螺旋構造を宇宙・ 生命の意思と考えるからである。今までに無かったものを求めて、新しい世界に辿り着くために、反復と螺旋は紡がれる。この仕組みを、高次へと至る正しい道と捉えるならば、 過去から未来に跨って、円環を繰り返すだけの輪廻は、救いのない地獄と言えるのではないだろうか。
仏教的な世界観において、この世での生は、魂を磨き輪廻転生の輪からの解脱に到るための修行の場であることは広く知られている。私は、これまで述べてきた地獄の円環と、この輪廻転生の輪のあいだに、相似性を感じずにはいられない。 しかし、私の求めることは、実はこの地獄の根絶ではない。夜眠らなくては日中の活動に支障をきたしてしまうように、肥沃な泥の中でまどろむ時間は心を癒す機能を持つし、そこで生きていくという自由を私たちは持っている。大いなる意志を構成するために生の小さな点があるわけではないのだ。
願わくは、ひとところで永遠に廻り続ける人間の虚しさや悲哀、苦しみに悼み寄り添う人間でありたいのである。

㈢悼むための装置

再びエリアーデによれば、世界の中心とは宇宙・大地・地下の接点であり、そこは聖地 となるという。また、その聖地へ至る道は、困難の多い道であり、それ自体通過儀礼である。何をもって正しいとし、また間違いとするかを決定することは、簡単ではない。 だが、あらゆる事象に意味を見出そうとすることは、人間に与えられた生命力の一つであろう。その能力によって、苦難を幸福への真実の道筋と見ることができるし、死への向き合い方・弔いの歴史も、この能力に依拠するものと思われる。
死を条件にして、生は存在している。 露のような命の儚さを知りながらも、それに愛着を持つことは悟りの妨げであると説く仏教の悲哀に向かう術は、無常を知ることである。それは、この世を超えて、永遠を見ようとすることであった。その先にあるのが、極楽浄土のイメージであり、解脱の境地であったのだろう。これは、キリスト教にとっての最後の審判であり、信仰による死の克服・グ リーフケアである。
しかし、果たして、現代の私たちが、このような信仰を持てるだろうか。 近代科学の時代において、宗教は最早フィクションでしかなく、失われていく一切を救う能力を持たないということは、多くの現代人が突きつけられ痛感していることであろう。

私は芸術の領域・力なら、宗教が取り扱ってきた悲哀を譲り受けることができるのではないかと期待している。語られてきた世界の秘密をあまねく響かせる手段として、芸術以上に最良のものを私は知らないからだ。
生まれて死にゆくこと。喪失を経て獲得すること。全てが等しい重さで、尊いものであるからこそ、私たちは惑い続ける。目まぐるしい無常の中、悼み続けることは、人の心を簡単に壊してしまう。過去と現在と未来の繰り返しを模した回転体=悼むための装置=聖地を作り出したい。こうした聖地の創出は、貴人の墓に、生贄ではなく埴輪を埋葬するようになった歴史とも呼応するかもしれない。来るべき明日を迎えることが魂の求めるものならば、悲哀を漲らせた心が辿り着く場所もあって然るべきだろう。
燃える生命を動力に、未だ見ぬ次元にあるはずの世界を求めて、宇宙を貫くこと――それが銀河の意思ならば、私は荼毘に付した記憶を、どこにも行けない心を掬い上げることで、地獄の渦中において、悼む人でありたいと願っているのである。

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