〈知覚とセルフ〉
割れたお茶碗隠したでしょ
母が夕食の時ぽろりとそう言った
これはよくいうボケではない。
母は全くボケてない、むしろ鋭いのだ
たしかにお茶碗割ったから、後で治すねと
部屋の奥にしまったことを母は忘れていたけれど
あなたならやりかねない
その鑑識眼に間違いはなかった
だっていつだか学生の時、海外に行った時には、ホテル代浮かすのに夜行電車かなんかで移動して、全然予定にない国のおみやげ持って帰ったり、ほら、他にもいろいろねぇ。
いつの話だ??全く覚えてない、、、
けれども、母は出来事について言っているわけではない、、資質について言っているのだ。自分ではよくわかる。母はほんとうに昔からごまかしがきかない、、、
週に一度実家に戻るようになるといろいろ思い出すものだ。
母がどう思うか、この小さな“セルフ“がこどものころは全てだった。家庭、社会、環境の中で作られたもの、、、
親が厳格ならごかまかすようになるし、親が頼りなければしっかりするし、おおらかな親ならあんまり裏表のない子が育つかもしれない、でも、そんな親も含めて環境が育てたものだし、誰のせいでもない。
だから、その誰かが、いろんな環境的な影響満載の誰だかよくわからない自分=ちっさい自分をどう見ようと、今はさほど問題にはならない。
知覚は、免疫の中枢で起こる
身体の勉強を続けてきたのはこのちょっと違った視点が精神的にものすごい助けになってきたからだ。
生まれて間も無くは、生命全体が自己であったのが、しばらく人間社会で暮らすうちに、別の小さな自己を産み出して、生命全体の利益という意識はきえ、小さな自分にとっての利益とはなにかという意識に取って代わるのだそうだ、、、
だからその小さな自己と非自己を分ける免疫系は躍起になって休む間も無く働いて、結果わたしたちは疲れ果ててしまうのだ。
ようは母も私もお疲れ様だ。
あなたならやりかねない。
この言葉は、もう、そんなに私に響かない。
さもありなん、このやりとりが今ではちょっとなつかしい、、甘酸っぱい感じだ。
年老いて、母の自己に対する知覚はものすごく変化している、、小さいセルフの心身の変化を母は、少し距離を置いて見ている気がする、、、だんだん生まれた頃の感覚に戻っていくのだろうか、、忘れていた“大きなセルフ“に還っていくのだろうか。
母の話を聞く醍醐味はこれからかもしれない。