しゃべっている言葉が違うのよ
しゃべっている言葉が違うのよ
ある依存症当事者の言葉が、
『する』と『される』の外側の世界の研究の始まりだったと言う国分功一郎さんの研究をまた最近よく参照します。
受動態でも能動的でもない言葉
責任の所在がわからないからと、排除されていった言葉の存在がたぶん持っていたであろう癒しの原点を探し求めて、思えば、私は、、身体の世界に飛び込んだ、そんな気がしています。
『待ち合わせの場所で待ちなさい。必ず出会わされ、癒される』J.jealous D.O.
『お互いを見つめ合うことで、私たちを彫刻する』Natsu Nakajima
まだまだあるけど、例えば。
やっと見つけた心を揺さぶる言葉を持っていたのは、お一人は一治療のために身体を探求し続けた先生、またもうお一人は、表現のために身体の奥深くに分けいられた表現者でした。
これが自分にとってな特別なのはなんでだろうか、と考えた時に、これらが、知覚を伴った言葉
、、、これを発するまでに辿った切実なプロセスが、借り物でない何かが、知識によらず、単に才能によらず、ちっさな人間の感覚機関を確かに経由して辿り着いた尊い領域を、垣間見せてくれたからじゃないかと、、脳みそじゃなくて、皮膚を通してしみいるような、そんななにかが、全身を満たす時何かが変わる、、
その血の通った、尊い領域へのプロセス、足跡に、多分自分にとっての癒しがあるのだと思います。
最初から崇高であるなら癒しはいらない、、
人は覚えているべきものを忘れて、忘れるべきものを覚えている、
そう師が語る時、忘れていたものが、細胞の奥にかくれていたものが、中心に宿ります。
それは私達が言うところの生と死も、アグリーもビューティも、境界線なく関係をもちあう世界なのではと、推測します。その舞、、音楽、、、
しゃべっている言葉が違うのよ
自分の中にも確かにある、その感覚が、身体とのやり取りでどのように変わるのか、
引き続き、探究を続けたいと思います。