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湖北の風景30 山津照神社


※滋賀・湖北地方の自然や神社などの風景を綴っている記事です。

本日は米原市能登瀬の山津照神社(やまつてるじんじゃ)
古風に言うと、「やま・つ・てらす・かみの・やしろ」
ヤマ・・ツ・テラス?
「山を照らす」or「山の津(港)を照らす」?アマテラスの山版?

境内には息長宿禰王の墓と伝わる古墳も併設!魅力的な出土品が多数。(滋賀県指定史跡)
息長氏、神功皇后、継体天皇、その界隈ではけっこう有名な式内社です。
さらに藤原不比等の流れを汲む、青木一族がこの社の鎮守に携わってきた常盤なる「青木の里」の謎・・・(重要)

あ、そういうの、大丈夫なので・・・。という方にも何か心やすらぐふるさとの校庭のような古社の風景ですので、写真だけでも見ていって下さいね。

新緑の美しい季節にお邪魔しました。



一の鳥居
継ぎ目と、横の壁の塗装の色が気になる
後の世の神社の実質の支配者である、
謎の関東武者・青木氏の山城があった?
これが現「青木館」・・・寺?
芝やクローバーの茂る参道(空き地が多い)
→以前は神宮寺が建っていたそう
右下山裾の青木社が移転前の山津照神社があった所
鳥居の左手に古墳
〈手水舎の由緒書〉・・・やや香ばしめ
・上古時代、万物造化の神・国常立命を祀った。
・豪族息長氏の崇敬が厚く、神功皇后が朝鮮に進出する際祈願され、
帰還の際朝鮮国王の鉞を奉納されたので宝物として保管してある。
・以来、名社として延喜式内社に列せられ、皇室や武将の崇敬が極めて厚い
後鳥羽上皇が度々参詣され、菊桐紋の使用を許可、名刀を奉納された。
南北朝時代、光厳帝は当社修理の院宣を下された。
・境内の古墳は神功皇后の父、息長宿禰王の御陵地なので当神社と関係が深い
古墳前 若宮八幡宮 伝・息長宿禰王の墓
由緒書を信じると、母方のじいちゃんの墓前に外孫(応神天皇)が祀られている感じ
息長古墳群の一つに数えられる前方後円墳
明治に社殿移転時に発見された
出土品(ここでは見られない)
祭り前でした
宝蔵庫
神功皇后奉納という鉞(マサカリ)はあるのかしら
拝殿 セルフおみくじと御朱印あり
渡り廊下!(語彙力の問題)
苔もふもふな本殿 横に摂社(春日社、北野社)
歌碑「木からしの 風のふけども 散らずして青木の里や 常盤なるらん」※後述
この横に磐座のような大岩が露出していました
旧歌碑?(青木神社側)


山裾の青木神社(旧山津照神社地)
青木神社 こちらも常緑樹が鬱蒼としてて良い・・・


※おまけ 
・ピンクの躑躅(つつじ)

・黄色いクジラ 近くの道の駅(近江母の郷)にて


※解説など

・山津照神社(ヤマツテルジンジャ) 
米原市能登瀬

祭神 国常立神
   または山津照子乃明神
   または越前国帆山神社の分霊(諸伝あり)
   ※
「帆」は火偏に几)

摂社
青木神社(旧社地)、若宮八幡神社、春日社、北野社

767年 息長氏の祖神を祀って創建されたと伝わる。
主祭神、国常立神(クニトコタチノカミ)とは、古事記において神代七代の時代の最初の神。独神。日本書紀において天地開闢に際して最初に出現した神。純男(陽の気のみで生まれた純粋な男性)で神話やエピソードがない概念的な神(でも男)という存在のようです。記紀の神を当てはめた感じで、特別、当社の祭神とする必然性は見当たらない。
最初の神、天之御中主(アメノミナカヌシ)は妙見信仰(北極星)と同一視されるというのはどこかで読みましたが。

じゃあなぜこんな引っ張ったかと言うと、

神名の「国」は国土、「常」が「常盤=永久」と取ると国土を永久に立てる、国の基盤、といった意味の国の守り神。
常盤=常緑樹=青々した木=「青木」大明神(中世よりの信仰対象)の暗号という解釈ってどうかな。

青木氏とは、代々この神社の別当職を務めた氏族。
息長の墓地(聖地)が青木に乗っ取られたと取るか、天智系?または藤原系?で仏教色を加えつつもアジールを守り続けたと取るかで180度評価が変わります。

例えば「老舗がライバル外資系に買収されて1000年先も残る会社として存続している」と考えると。あながち聖地の奪取とも言い切れない。青木様々~もアリ?というのが最近の私の感想です。
この古墳を擁する聖地を、野山に還らずに、また、城などに改修されずに、聖地として守り続けてくれたことには敬意を示さずにはいられません。(結果論だけど)

・山津照神社古墳
県史跡の前方後円墳(全長46M)
横山丘陵の南端に造られた古墳時代後期(6世紀前葉)の首長墓とみられる。湖北の代表的な古墳で、息長古墳群最後の前方後円墳に位置づけられます。
墳丘の大きさの割に副葬品は豪華で、銅鏡・金銅製冠・刀剣・水晶製三輪玉、馬具、須恵器などが出土しています。大陸や湖西、北陸、東国との関わりを想定できるようです。ただ、築造が6世紀前葉とすると被葬者が神功皇后(息長帯比売)の父(息長宿禰王)とするには時代が下りすぎていますね。

明治15年(1882年)の社殿の移転工事に伴い、後円部に設けられた横穴式石室が偶然発見されました。
当時のかなり詳しい発掘調査書が残っているようですが、明治なので・・・石室は埋め戻されたというのは惜しい話です。
(信仰と研究は別・・・祖神の墓を堀るのは抵抗があるかな、とか想像してしまいます)

墳丘は東西方向に主軸があり、東に後円部(石室)、西に前方部を持ちます。太陽の運行と、古墳のある丘陵南端より見下ろす天野川の水運や中山道を意識したものであるように思えます。
水運が重要な時代に、山の津を照らす灯台のような役割の古墳が築かれたと取ると『山津照神社』という名前がしっくり馴染みます。

 
・歌碑
『木からしの 風のふけども 散らずして
青木の里や 常盤なるらん』

風=息長氏 の木枯らしにも散らず
常盤=青木氏 の里の繁栄よ永遠に!

過去の豪族より今の青木様、といった皮肉?でしょうか。面白い。
※「息長」とは長い息、息吹という意味を持ち、製鉄の送風や海に潜る海人族、呪術師などの説があります。

青木氏は藤原不比等の末裔を称しているらしく(青木神社に石版があったが写真撮り忘れた)不比等と言えば中臣鎌足の息子で、天智天皇の落胤とも。
継体天皇の擁立や、壬申の乱の天武天皇側のサポートに携わったとされる息長氏とは逆の立ち位置ゆえにこの地の押さえとして別当職を任されたと取るとスムーズかもしれません。

(謎の関東武者・青木氏については調査中です)


※以上、長々と書き連ねてしまい失礼しました。
優しい新緑と霧雨の中、古代豪族と外資系買収について、ぼんやりと考えてみた5月の散策でした。息長氏、青木氏、きっとそれ以前にもここは聖地だったのだろうと思わせる、何かスピリチュアルなものを感じる場所で、また季節を変えて訪れていきたいです。
湖北の風景。この青木の里が永遠であることを願ってやみません。


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