ライス的存在としての『日本美術院展』
よく本などを読んでいると巻末に『我が愛する妻と娘に捧ぐ』とか『偉大なる師〇〇に捧ぐ』などの文言が出てくる。その文言を見る度に、
『誰だよっっっ!!!!』
と思ってしまう。
わざわざお金を払って買った(しかも高かったりするとなおさらな)本や映画がどこの誰とも知らない母や娘や愛する妻に捧げられたものだと知ると途端に怒りが込み上げてくる。
お前の愛すべき対象のためになんで私がお金を払わなにゃならんのだ!!!!
ボランティアじゃねーんだよ!!!!
…とまでは言わないが、なんとも言えない気分になるのは事実である。
平日午前10時過ぎの横浜中華街の店内には曇り空に合わせたように愛すべき対象なのか、世間に言えない関係性の人たちなのか、決して白日の元にさらせるような関係性ではなさそうななんとも言えない男女がまばらにいる。
店内では1990年代のヒットソングがBGMとしてエンドレスリピートで流れている。
槇原啓介、酒井法子、小室哲哉、布袋寅泰、長渕剛…。一世を風靡した彼らに共通していることは全員が社会ブームになる程のヒットソングをいくつも世に送り出したことと、なんらかの形で一度は前科歴があると言うことか。
隣の席では明らかに仕事の外回りの最中であろうと思しきサラリーマンが3杯目の追加のビールを注文し始めた。
朝の時間帯から中華街に行くことは今までなく、いつも訪れる夜の時間に比べるとかなり閑散としている。それでもまばらに人はおり、やる気があるんだかないんだかわからない勧誘もちらほらいる。
それに合わせ私も朝から中華のコース料理と瓶ビールを注文する。
今回横浜を訪れた理由は日本美術院展を見に行くことと、今年行われた横浜トリエンナーレを合わせて見ることでした。
日本美術院展とは幕府崩壊後の荒廃した日本美術を憂いた岡倉天心が作った日本画団体であり、天心は日本の文化を世界に伝えるべく『茶の本』などを通して大変に当時の日本美術に尽力した人です。また天心なき後の院展は横山大観や下村観山などが中心メンバーとなり再興院展として1914年に発足します。
ちなみに岡倉天心は東京美術大学(今の東京藝術大学)の初代校長的な役割もになったりしてかなりの影響力を持っていましたが、当時の大物官僚で美術復興にも一緒に関わった九鬼隆一の奥さんと不倫したり、女性関係に問題がありすぎて最後は大学をリコールされています。
渋沢栄一といい、中華街に朝からいる人たちといい、ここまでに登場した人たちはみんなどうしようもない人ばかりですね…(笑)
では、その再興院展の会場に早速入っていきます。
入り口に入ってすぐ目につくのが内閣大臣総理大臣省受賞作のこちら。
毎回思うのですが岸田総理が忙しい中わざわざ見に来て本当に選定しているのか甚だ疑問です。
そしてこちらは先日の東京都知事選で第三期目に突入した小池百合子都知事選定の都知事賞受賞作品です。
なんでしょう、小池百合子が審査員だからか服と色が三宅一生的なのは気のせいでしょうか。
続いてこちらは日本美術業界重鎮大集合コーナー。重鎮ですよ、珍獣じゃないですよ皆さん!
田淵俊雄、宮廻正明、手塚雄二(先生)…と、もぉ重鎮大集合です。日本画界のレアル・マドリードのようなコーナーです。
これらの先生の絵を久しぶりに見て思ったのは、まだこの先生たちご存命だったんだ…!!ということでした。自分が大学生だった頃からかなりの大御所で仙人のような風貌の方々だったので、もはや現世を去っていたと思ったらまだまだ現役でご活躍していました。
先日京都で村上隆さんの『もののけ京都展』を見てきたのですが、そこに村上隆さんが学生時代に下田義寛先生に古美術研究に連れられてと書かれていて、その下田義寛先生までがまだ現役でご活躍です。
日本なのに日本ではないような異世界体験、とありますが私はもはやこの展覧会が現世なのに現世ではないような気分になりました(笑)
政府の掲げる『人生100年時代』のポスターに彼らを使いたいくらいです。もぉ人生100年時代を地で行っているというか…観音的な御来光まで描かれているし、このままだと彼らに『人生200年時代』まで引き上げられそうで怖いです。年金受給開始時期がますます危ぶまれます。
こちらは田淵俊雄先生の作品です。相変わらず素晴らしいですね。
あまりの技術のうまさと長寿にもはや『人型日本画人造人間・田淵俊雄』と呼ばれています(勝手に私が呼んでいる)。
この先生の絵を見るとあまりの線の綺麗さや刷毛跡のなさに本当に田淵先生は機械でできているのではないか?と思ってしまいます。異様に長生きだし…AI技術も発達してるし。シンギュラリティー(技術的特異点)とは彼のことを表しているのだと思っています。
そして我らが宮𢌞正明先生です。来ました〜。
ちょっと前に勝手に人の写真を絵にして『25年くらい前に約束した気がする』と言いはって新聞に取り上げられていました。
そして今回のモチーフのネタも40年前のものという!!!
40年前のスケッチと妄想を元に記憶を手繰り寄せながら描かれた、過去と現在が入り乱れる『錯然』の木!!
こんな感じで約束もしたという妄想だったのでしょうか…。
こちらは西田俊英先生。
こちらの先生は…今度は錯覚に陥っております!
またまた出ました、大喜利発動!!錯から始まるパワーワード!『錯然』に続いて『錯覚』!!
なんか制作コメントが『錯然』とか『錯覚』とか『胃が痛くなった』とかばっかりですが、大丈夫なんですかねこの先生たちは…。結構な高齢なので、だんだん心配になってきます。
高い技術の作品に囲まれながらすごい量が展示されており、これどこまで続くのだろうと思っていたら、唐突に見覚えのある感じの絵が出てきました。
あれ、なんかこの雰囲気は…
…俺じゃないよね?
唯一違うのは着ている服の色が私と反転していることくらいでした。
さらに綺麗な絵の人たちが続きます。
こういった展覧会を見ていると、海外に主なマーケットがあり参入障壁の高い現代美術業界に比べると、割と安定した基盤とシェアを誇り続けている団体だなと思います。未だに廃れることも失速することもなく、割と生活的な面においてもいい感じの公募団体。対して現代美術系の画廊などはバブル崩壊後、あるいはコロナ以後、潰れに潰れかなり厳しい状態です。
現代美術寄りのよくわからない展覧会ばかりを見ていると、たまに食傷気味になることがあります。例えば毎日エスニックやらイノベーティブやらフュージョン料理ばかり食べていたら辛いでしょう。そう言った意味では主張が強く癖のある絵画というわけではないが、なんだかんだ言って未だにデパートの画廊や催事では変わらず人気を保っている、この安定した存在感。主菜ではないけれどいつも食卓に必ずある存在、常に定期的に展覧会も開催されている…。そういうちゃっかりしたところが日本の美術業界におけるライス的存在だなと思います。
飲み会とかにもいますよね、何が楽しいのかと言われても取り立てて特徴も面白みもないのだけれどどこの飲み会にも必ず呼ばれてる様な奴。
ここで院展にまつわる強く記憶に残っているエピソードを一つ紹介したいと思います。
10数年前院展の展覧会を観に行った際たまたま本展覧会にも出品しているある大作家の先生が会場で講演を開いていたので聞いていました。
すると『これからは時代に合わせて院展もアップデートしなければなりません!院展は変わります!私も変わります!』と民主党時代の小沢一郎みたいなことを言っていました。
そして『今まではこれが基準で、これしか通しませんでした!!』と大きな声で語ります。
そう言って指差されたのは背景や物が幾重にも重ねられた縦方向の細い線描のタッチで描かれた絵でした。
その後『でも、これからはこれもオッケーです!!』
とさらに力のこもった大きな声で宣言しました。
それを聞いていた私はついに院展も抽象などの作品や現代美術寄りの作品なども扱うのか?と俄かに期待していました。するとその後助手らしき男性が持ってきた絵は、なんと背景のタッチが垂直から斜め45度に少しだけ角度が変わっただけの絵でした。
そしてその先生は自身満々に『これからは斜めもオッケーです!!!!!』と大きな声で言っていました。
それを聞いて正直ズッコケそうになりました。
共産主義国家かここは…っっっ!!?って。
『多様性』の定義が激しく揺さぶられます。
この発想はどこから来るのか…もはや異邦人どころか同じ日本人としても甚だ理解に苦しみます。
かつて17世紀初頭から200年余り続いた鎖国はペリー来航により半ば強制的に解かれることになり、その後西欧諸国と肩を並べるべく突貫工事で近代化を急いだ日本。
しかし、いざ国を開いて西欧諸国を見渡してみるとそこで目にしたヨーロッパ原産の厚塗り油絵にとにかく驚愕し、我らがスタンダードだと思っていた薄塗りの絹本彩色の日本画は『めっちゃ薄いやんうちら!こらあかんっ!』と至急厚塗りに切り替え厚塗り用の和紙を開発する事態を招きました。
そしてお雇い外国人アーネスト・フェノロサを通じてはクラスの好きな女子の好きなアイテムを賄賂で雇った別の女子に聞き出すがごとく、最先端の西欧の動向をリサーチし、西欧由来の豪華な色彩顔料を取り寄せては『新岩絵具』なる人工絵具を作り出しました。さらにそこにメイド・イン・ジャパンの証明として印籠よろしく『日本画』なる単語を作っては貼っ付けて(明治になって初めて「日本画」という言葉は「洋画」の対概念として作られます)当時の政財界の合同コンパ的存在万国博覧会にてババーンとお披露目します。
もはや天然でもなんでもない人工的に作った絵具という、限りなく『日本画』という名を冠した割には全くもって日本らしさのない、学歴詐称に近いいかがわしくも涙ぐましいこの努力…しかし、この禁じ手のような手段を駆使してでも彼らに比肩せねばという焦りが彼らを一層駆り立てます。もはや小池さんも票を入れざるおえません。
その勢いは絵画だけにとどまらず着物を脱ぎ捨て洋服へ、箸はナイフとフォークとスプーンに、座布団は椅子に団扇は扇子に切り替えて、しまいには『お皿の上のライスはフォークの背に乗せて食べる』という謎ルールまで作りだしました。
その変化の速さたるや好きな女の子の好みがヤンキー系ファッションなどではなく、実は硬派なポロシャツチノパンコーデだと知って即座に服を切り替える硬派さのかけらもないマイルドヤンキーのようでした。
しかしこれこそが日本が目指した近代化であり、かつてのヤンキーが気づけば休日の運動会でビデオカメラ持参のマイホームパパに取って代わる様に、刀にチョンマゲ&サンダル(下駄)というヤンキーファッションからの脱却こそが岡倉天心が目指した近代化ないしは『近代日本画』から現在の院展へと連綿と続く『新生日本画』への幕開けだったのです。
勝ち続けるパチンコジャンキーのようにノリに乗り、調子に乗りまくっていた日本は、ついぞ最後は世界最強国家米国にまで喧嘩を売りはじめます。『もっと行ける、まだ行ける!』と。そしてご存じの通り最大級に膨れ上がった調子乗りの反動は当然の帰結としてその後の日本に相応のダメージを与えます。
ギャンブルでも食べ物でもちょっといい思いしたかな?くらいがちょうど良くて、もっとだもっとだという現在の資本主義社会のような底なしの欲望はいつか破城するということを身をもって知りました。彼らに必要なのはちょうどいい頃合いでの一早い『脱成長』だったのです。その見極めを誤ってしまったことが敗因だったのでしょう。
そう考えるとこの院展の『タッチ傾斜角45度以上厳禁』というのはもしかしたらかつての日本の大幅に切り込む角度を誤った歴史への戒め、ないしは歪みのより戻しとしての45度なのかもしれません!この加速度的な近代化に伴う過ちを二度と繰り返さないために、少しづつ角度を慎重に傾斜させていく。そう思いながら改めてこれらの絵を見ると、伝統を後世に繋げるための先人の知恵とも思えなくもない。
『記憶にございません』はSNS全盛の時代に通じない。それを知ってか知らずか絵は兎にも角にも形として残るから、慎重に丁寧にタッチを残していく。誤った角度にならないように、人々の記憶に刻みつけるように…。
この45度にはそんな深い意味が込められているのかもしれない。そんな教訓を肝に銘じてこの文章もそろそろ収束させたいと思います。というかそうしないと日本画界の重鎮から私の首にもそろそろ斜め45度に刀が振り下ろされそうなので。
そして願わくば、私が生きている間にタッチの角度がさらにあと45度下がり、これからは『水平タッチ』も認可され、あらゆることを水平に、みんな平等にしましょうよ!みたいな平和な日が訪れることを願ってこの話を終わりにしたいと思います。
再興院展、改め最高院展!!
この文章を、未だ衰えることなくライス的存在として君臨する、
院展の重鎮たちに捧ぐ。