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メディアの現状と若者の静かな抵抗
現代の若者たちはテレビをあまり見ないという。以前は単純に、世代間格差や娯楽の多様化による現象だと考えていた。スマートフォンという選択肢があれば、一方的な情報発信をするテレビは魅力に欠けるのだろうと。
しかし、最近の某テレビ局の騒動を見て、異なる視点が見えてきた。若い世代は、現代のメディアの歪みを本能的に感じ取り、意識的に距離を置いているのではないだろうか。
このメディアの傲慢さは至る所に見られる。権威主義的な情報発信、日本人メジャーリーガーの自宅建設予定地を無断で暴露し家族を危険にさらす無神経さ。そして自局の問題となると、社長会見はスチール写真のみという身勝手な対応。記者たちが他者のプライバシーを侵害する取材を「知る権利」の名の下に正当化しながら、自分たちの問題には厳重なガードを張る。この二重基準に、若者たちは敏感に反応している。
政治家の不祥事を徹底的に追及する一方で、スポンサー企業の不正には及び腰になる報道姿勢。視聴率至上主義の下、センセーショナルな演出や誇張された見出しで視聴者の感情を煽る手法。これらは若者たちの目には、信頼性の欠如として映っているのだろう。
過日見た映画「室町無頼」が、この状況と重なって見える。足利幕府の治世下で8万人もの庶民が命を落とす中、初めて一揆を起こした武士の物語だ。現代のメディアもまた、かつての権力者のように手がつけられない存在となっている。「特定地上基幹放送事業者」という肩書は、総務省さえも簡単には規制できない盤石な城となった。
実際、2023年に起きた某テレビ局の特定秘密保護法違反事件では、捜査当局への対応も高圧的だった。「報道機関としての使命」を盾に取り、組織ぐるみの隠蔽工作さえ疑われる事態となった。しかし、その後の社内改革は表面的なものに留まり、根本的な体質改善には至っていない。
「セカイ系」と揶揄される若者たち。大人たちは「もっと社会に目を向けろ」「広い世界を見ろ」と説教する。しかし、既存のマスメディアに染まった大人たちこそ、その言葉通りの行動ができているだろうか。ニュース番組では、アイドル気象予報士や忖度したコメンテーターが幅を利かせ、建設的な議論は影を潜める。大人たちは問題を認識しながらも、ただ文句を言うだけで具体的な行動を起こさない。
最近では、某バラエティ番組での差別的な表現が問題となった。制作サイドは「エンターテインメントの一環」と弁明したが、そこには社会的影響力への認識の甘さが透けて見える。視聴者からの抗議に対しても、形式的な謝罪で済ませようとする姿勢は、まさに権力者の傲慢さそのものだ。
一方、若者たちは単純に目を背けているわけではない。むしろ、歪んだ情報源から意識的に距離を置き、自分たちなりの方法で社会を観察している。SNSを通じて直接的な情報交換を行い、既存メディアのフィルターを通さない生の声を集める。
例えば、環境問題や社会課題について、若者たちは独自のコミュニティを形成し、情報を共有している。気候変動への危機感を共有するZ世代は、インフルエンサーの発信よりも、科学者や活動家の直接的な声に耳を傾ける。彼らは既存メディアが作り出す「物語」ではなく、データに基づいた事実を重視する傾向にある。
また、社会運動においても、若者たちは従来とは異なるアプローチを取っている。大規模なデモや抗議活動ではなく、SNSでの情報拡散や、日常生活における小さな選択を通じて、自分たちの意思を表明する。環境に配慮した消費行動や、エシカルな商品選択など、実践的な行動で社会変革を目指している。
権力の監視役であるはずのメディアが、いつしか監視されるべき権力となった今、若者たちの選択は賢明だったのではないだろうか。彼らは行動で示している―社会の歪みに対して、沈黙という形で抗議の意思を表明しているのだ。
最近では、クラウドファンディングを通じて独自のメディアを立ち上げる若者たちも増えている。従来のマスメディアが見落としてきた社会の隅々に光を当て、多様な視点から問題を掘り下げようとする試みだ。これは単なるメディアへの反発ではなく、新しい形の社会参加の模索とも言える。
大人たちが口先だけの理想を語る一方で、若者たちは実践的な対応を選んでいる。SNSでの発信は時として浅薄だと批判されるが、そこには既存の価値観に縛られない自由な対話の可能性が広がっている。情報の受け手であり、同時に発信者でもある彼らの姿勢は、これからのメディアのあり方を考える上で重要な示唆を与えてくれる。
この対照的な姿勢こそ、現代社会を映し出す鏡となっているのではないだろうか。既存のメディアへの不信感は、単なる若者の反抗期的な現象ではない。それは、社会の歪みを見抜く鋭い観察眼と、新しい時代に向けた変革への意思の表れなのかもしれない。