人生を織り上げる
爽やかにチャレンジの扉を開いていく、あずはる さんからバトンを頂きました、中島和子と申します。よろしくお願いいたします。
私は中央アルプスと南アルプスに囲まれた、信州の田舎町で育ちました。
四方山に囲まれた閉鎖的な地形のせいか、自己開示が得意でないので、今日は自分について書いてみたいと思います。
私は、今年やっと4年目を迎えたキャリコンです。初めから学生支援の現場に入れたものの、分からない上ににパワハラもあり、心因性の難聴になり半年でリタイア。
その後、専門学校へ籍を移し、今度はクラス担任兼務で、キャリアの授業や就職支援をさせていただきました。その時、メンタル不調を訴える学生の多さに驚いたこと、また、障害のある方の職業訓練に関わる中で「人生の決断に寄り添う自分が、無知なままではいけない。」と感じ、迷わず精神保健福祉の学びをスタートしました。
仕事と家庭と学び、それは、思った以上にハードで、まだ志半ばではありますが、今後もライフワークとして続けていきます。
今は、自称フリーランスとして、様々な場所で相談業務に携わっていますが、すべての経験が活かされていると感じています。
50歳を超えて初めて「働くことは生きること」であると知り、やっと今、自分のキャリアを本気で考えるようになりましたが、学生時代はひどいものでした。当時の京都には、まだ祇園にマハラジャがあり、河原町や木屋町あたりをウロウロしてると、料理や飲み物が「あちらのお客様からです」みたいな感じでテーブルに届く時代でした。
就職は氷河期で、採用凍結が相次ぎ、泣く泣く第二志望の業界に。でもそこで、プレタポルテやオートクチュールと出会い、世界のトップブランドの洗練された美しさに、くらくらしたことを覚えています。当時のデザイナーはジャンフランコ・フェレでした。
就職一年目に、神戸の三宮で震災にあい帰郷。地元の農協に就職したところ、CATVのアナウンス担当になり困惑しましたが、毎日、録音室にこもって必死で練習しているうちに「話す」ことで評価を得られるようになり、次第に「あの人にお願いしたい」という司会の指名が増加したため、司会業に転身しました。そこから、ブライダルを中心にMCを15年ほど続けました。
行き当たりばったりで、キャリアビジョンの欠片もない私でしたが、今は人生を逆算して、どんな楽しい事ができるのか、日々企んでいます。
養成講座のころ、意味不明で理解に苦しんでいた、サニー・ハンセンの「自分の人生を”有意義な全体”として織り上げる」という言葉が、昨年末あたりから、妙にしっくりきています。
私としては、家庭と仕事と社会貢献が上手く統合できたら理想的です。
歩みは遅くとも、じっくり、自分らしさを織り上げていきたいです。
次回は、理系出身の営業研修講師『売れる言いかえ大全』の著者、大岩 俊之さんです。お楽しみに(^^)/