部下と上司の膝栗毛⑦
「お茶しよう」って言ったけど
「来瞳ってフルーツ駄目なんだっけ?」
行きの電車の中で、先ほどからスマホで何か調べているらしい最上が徐に尋ねてきた。
というのも、芳香が白樺アレルギーで、リンゴや梨、ビワ、柿、さくらんぼ、桃など、ある特定の果物を生で食べると、蕁麻疹と喉に痒みが出るからである。
なんとも難儀な体質だが、柑橘類やブドウ、苺、スイカなどの瓜科は問題なく食べれるし、対象の果物だって、コンポートやジャム、ゼリーなら食せる。
以前、居酒屋で生の凍らせた桃が刺さった白桃サワーで唇が腫れたのを憶えていたのだろうが、それにしたって、最上の質問は唐突過ぎた。
「柑橘系なら大丈夫ですよ。後、葡萄とか苺とか瓜科のものも」
「うーん……」
芳香の返答にもどこか浮かない顔で、今度は芳香の全身に目をやった。
「……何ですか?」
「いや……ドレスコードとかはないと思うんだけど……」
「はい?」
思わぬ用語に聞き返した。
ドレスコードが決められた場所となると、ある程度限られてくるわけで、そう思うと、芳香
途端に家へ引き返したくなった。
こうして最上と会っているのだから、それほど無作法な格好をしているわけではないが、およそ今の話の流れ上で推測されるドレスコードとは、些か普段着過ぎた。
辛うじて下はジーンズではなく、白の七分丈。上も、白Tシャツの上から黒のオーバーサイズのシャツを羽織った姿だが、足元が赤と紺のスニーカー。肩からかけている鞄も、ピンクと赤のストライプ柄という、超カジュアルな格好。
かくいう最上とて、ベージュのカーゴパンツに、黒のニット、下はいつも履いているグレーのスニーカーだから、今更ドレスコードと言われても、説得力の欠片すらない。もしろ芳香よりアウトと言える。
そんな会話の果てに連れてこられたのは、地上から最も離れた場所だった。
エレベーターを待つ間、イベント案内のパネルに貼られた展望テラスのポスターが目に入った。
【期間限定! マンゴーアフタヌーンティープラン】
「今更なんだけどね、アフタヌーンティー予約したんだ」
「はぁ……」
毎度のことながら、この手の金銭感覚はだいぶブレている最上ならやりかねないし、正直喜びは強い芳香だったが、それよりも何とも言いがたい苛立ちに、思わず最上を殴りたくなった。
「マンゴー駄目だった? 無理そうだったら、俺が食べるから」
「そういうことではなくて!ーーこういうのは前もって言ってもらわないと」
「ドレスコードのこと? 大丈夫だって! たかだか後楽園だし」
「舐めてんのか」
やいのやいのと言いながら、エレベーターは43階へ到着した。
予約時刻から10分ほど過ぎていたが、問題なく通された。
平日と言うこともあって、チラホラと席が埋まっていて、そのほとんどが年配のご夫婦か、女子会の集い、若いカップルが多い。
二人が通されたのも、階下が一望できる窓際の席だった。
いわゆる雑談を楽しみながらのティータイムというのが、アフタヌーンティーの醍醐味だろうが、写真を撮るだけ撮って、後は黙々と食べ始める中年男性が相手となると、前菜から、メインとなるティーセットに移るまでに30分もかからなかった。
「こういうの好きだけど、俺は向いてないなぁ……食べるの早すぎる」
「今更ですね」
芳香はというと、熟考に熟考を重ね、上段からゆっくりと食べていった。そうしてやっと一番下に手をつけた頃には、最上は既に完食していて、フリードリンクをメニューの上から攻めているところだった。
「飲み放題だからね」と言う最上を尻目に、芳香は最初にアイスコーヒーを頼み、期間限定の言葉に乗せられて、マンゴービネガーのソーダ割を飲んでいた。
英国式にならって、紅茶にすべきかとも思ったが、社会人になってから身に付いてしまったコーヒー中毒がここに出てしまった。
「マンゴーは食べられるんだね」
「丸ごと生でマンゴーを食べたことがないので分かりませんけど、マンゴーは好きですよ」
「そっか、よかった」
タルトの最後の一口を平らげ、ナプキンで口を拭っている芳香に、最上は満足に目を細めた。
「前、ホテルのアフタヌーンティーの話、してたから予約したけど、正解だったかな」
「ああ。あれも結局行けませんでしたからね」
それは以前、芳香が義姉の誕生日祝いに老舗ホテルの英国式アフタヌーンティーを予約した時のことだ。
だが、義姉の体調不良と、芳香の希望休が通らなかったために、延期となった。
半年以上も前のことだったが、芳香でさえ忘れかけていたことを憶えていたことが面白かった。
「ありがとうございます。とても満足です」
「喜んでいただけたようで何よりです」
そこだけを切り取ってみれば、二人は紛れもなく恋人同士である。
その後、芳香が化粧室に立っている間に、会計は既に済んでいた。
「すいません、御馳走様です」
「高くついたなぁ」
とわざとらしく言いながらも、最上は満更でもなさそうで、一方、芳香はまた一つ先を越されたことに申し訳なさと悔しさを感じた。
「最上さん、お手洗いは行かなくていいんですか?」
「うん、大丈夫」
「結構ドリンク飲んでましたけど、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ! 俺は大人だからね」
ただそのままに終わらないのが最上という男である。
1階のロビーを横切り、いざ正面玄関口の自動ドアを抜けたところで、何やら様子がおかしくなった。
「ヤバい……トイレ行きたい……」
呆れて立ち竦む芳香の脳裏に、春の夜桜見物の出来事が甦った。
「……私、訊きましたよね? 行かなくていいのか、と」
「さっきは本当に大丈夫だったの! ビル風に当たったら、急に」
「41歳が訊いて呆れますね」
自分より一回り以上年の離れた上司に、自分は何をしてるのかと、苦笑いするのは何度目だろうか。
「そこにパチンコ屋ありますけど」
「パチ屋のトイレは嫌だなぁ、今日は」
「状況分かってます?」
駄々を捏ねる最上に嫌気が差して、とりあえず近くの施設に入ろうと、最上の手を掴んだ。
「学習能力皆無か!」
「舎人公園の時もそうだったねぇ」
あの時と同じく、当の最上は楽しそうで、手を引きながら、芳香も笑った。
梅雨入りも間近な初夏のことだった。