部下と上司の膝栗毛⑫
遅刻
>9時半に池袋ね。
前日の話し合いで決まった通りに、芳香は予定通りの電車に乗って、驚くほど順調に待ち合わせ場所まで辿り着いた。だがしかし――
>着きました。
「おはよう」のスタンプと一緒に到着の旨をメッセージで送るが、一向に既読がつかない。
芳香とて、いちいち既読スルーを気にするタイプではなく、むしろ既読したまま返信しないこともあるから、大して気にも止めてない。
それにも関わらず、気になったのは、最上にしては珍しく、朝から何の連絡もよこして来なかったからだ。少なくとも、先ほど芳香が送ったようなスタンプを送ってくるが、どうしたわけか今日はやけに静かだった。
(時間は過ぎるけど、カフェでも入るか……)
まだ朝食をとっていなかったこともあり、芳香は一旦その場を離れ、近くのカフェに入り、軽食とコーヒーを頼んだ。
もう一度、アプリを開いてトーク欄を確認するも、まだ未読だった。
(早めに着いたって連絡もないしな……)
普段の最上なら、早めに着くと、芳香のようにカフェに入るか、30分以上待つならスロットを打つ。後者はある程度、未読のこともあるが、その場合は必ず台の写真と店名が送られてくる。だが、今日はそれすらもない。
芳香がモーニングのトーストとコーヒーを飲み終えてしまうと、約束の時間はとうに過ぎていて、連絡もまだない。まだ見てすらもいないようだ。
意を決して、アプリの音声通話機能を押して、呼び出す。――まだかまだかと構えているうちに、応答なしとして切れてしまった。
(今ので出ないとか……まさかあの人、スマホ忘れて出てるんじゃ!?)
不意に脳裏を過った不安は、20分後かけ直して同様の結果を招いたことで確信を得た。
二人が勤める会社では、ここ最近、社員全員に業務用のスマホが支給され、そこにはお互いの連絡先も登録されていたから、一瞬そちらの端末にかけることも考えた。だがそれを思い直したのは単に、通話履歴が本社に反映されるからだ。同じ店舗勤務ならまだしも、芳香は本社の企画課、最上は店舗勤務。それなのに突然業務用端末で連絡をとるなどしたら、何を言われるかわからない。
そうなると、かなり手詰まりだった。
(時間的に気づいて戻ってるわけでもなさそうだし、あの人のことだから忘れてもバス停とかで気づくだろうし……)
知る限りの最上の行動パターンを考えながら、池袋駅構内を一通り回ってみる。と言うのも、池袋駅に待ち合わせたが、具体的な場所までは指定されなかったのだ。
このまま駅の外に出るなら、東口のふくろうの前でもいいが、今日これから私鉄に乗っていかねばならない。だから、ある程度待ち合わせ場所は決まってくるものの、歩き回れど最上らしき姿は見当たらない。
そうこうしている内に、当初の時間から1時間経とうしている。その間にも再度通話を試みるも、全く出ず。そして未だ未読のまま。
(あの自分の鼾で起きる男が、3回の通話で起きないのは考えにくい……まさか途中で落としたか!)
以前に財布と鍵を失くしたことのある最上だ。その可能性はある。だが、鍵のように小さいものは当然として、財布を失くしたのは尻ポケットに入れるという癖によるもの。彼はいつもスマホはバッグに閉まっている。仮にバッグから滑り落ちたとしたら、あれほどの大きさと固さのあるものに気づかないものだろうか?
(電話番号も知ってるし、もしアプリが使えなかったとしても問題はない。そもそもスマホ自体を触れないんだとしたら……)
そこまで考えて、芳香の脳内は急激に冷えきった。考えたくはないが、ここまで連絡が来ないことは今までなかっただけに、突如浮かんだ最悪な予感を考えないわけにはいかなかった。
(もし来る途中で事故か何かに巻き込まれてたら……そしたら、どうすれば……)
とりあえず最上の寮まで向かおうと、歩き出した矢先、上着のポケットに入れていたスマホが震えた。
【最上春明】
突然液晶に表示された名前に慌てて通話ボタンを押す。
「最上さんっ、無事ですか!?」
開口一番、反射的にそう聞くと、少し間が空いて、掠れた低い声が返ってきた。
「……あ、無事です……というか今起きました……」
気まずげに返ってきた言葉に、芳香は崩れ落ちそうになった。それを何とか踏み止まったのは、やり場のない呆れと怒りである。
「……無事ならいいです。しばらく待ちますので、なるはやでお願いします」
「すぐ行きます」
僅か30秒という1時間待った身としてあまりにも呆気ない解決だった。
あれから30分後、改札前の柱に立っていた芳香を見るや否や、最上は斜め45℃で謝ってきた。恐らく今の行動で周囲の人間には、彼が途轍もない遅刻をしてしまったことは知れ渡っただろう。
「……ここ最近、私が遅れることが多かったので、これでおあいこです」
本当のところ、最上の顔を見た瞬間、怒りよりも安堵が勝ったし、無事な姿が見れた以上、どうでもよかった。でもそれを悟られるのが癪だったので、芳香は眉間に皺を寄せてそう言うと、先に改札をくぐって行った。