透明日和
前置き
幼い頃、はじめてしゃぼん玉を飛ばしたときの衝撃が忘れられない。
まだ小さな力で吹き矢に向かって
力いっぱい息を吐いた。
私が作ったしゃぼんの欠片は
あの青に向かって、堂々と飛んでいる。
透明を覗いて見えた虹色がきれいで、夢中になった。
どこに向かうのか興味を凝らして、
しゃぼん玉から決して目を離さずに1点集中。
瞬きをするのも忘れていた。
そのなのに、1分もたたずにプツリと消えた。
一生懸命つくった欠片だったのに。
知らず知らずの内に吹き矢にあたってしまったらしい舌が苦味に痺れても、
あの欠片の為なら我慢できるとさえ思っていたのに。
とてもショックだった。
消えた先に見えたしゃぼんの欠片を見たとき、ついに泣き出してしまった。
儚く消えてしまうあの一瞬に
人々はどんな夢を見ているのだろう。
どうしたら幸せになれるのだろう。
⟡.· 友達の話
私は友達の数がそこそこ多い。
八方美人だからだろうか?
そんな風に考えて素直に喜べないでいる。
そもそも友達って何なのだろう?
どこからが友達なのだろう。
私は仲の良い友達のことを
本心で「大切」だと思っている。
しかし、そんな大切な人々全てに
本音を言えるのだろうか、
助けることができるだろうか、
小学生の頃から関わりのある友達
(以下Aちゃん)から恋愛相談をされた。
彼氏に騙されて別れたが、
よりを戻そうか悩んでいるという相談だった。
私は全力で拒否し、
Aちゃんが辛い想いをしなくて済むようにAちゃんの彼氏に会おうと思ったが、
Aちゃんは結局聞く耳を持たないだろうと
彼女の話をきいて確信したし、
親でもない私がカップルに口をだす行為は
エゴになるだろうとおもった。
そもそも私自身が
話を聞くこともアドバイスもすることも辛いと感じるようになってきてしまった。
私は本当に全ての友達を
「大切に」できているのだろうか。
形だけなのではないだろうか。
とある友達は親友と思っていた子に
「優しさ」として本音を隠し続けた結果、
本音を爆発させてしまい、破局してしまったらしい。
友達はなんの保証もない繋がりだからこそ、
関わり方が難しいと感じる。
私は今後どうなっていくのか。
どんなに素敵な関係でも変化が訪れる可能性はあるのだろう。
重要なときに相手に本音を伝えることができるかどうか。
それと、
互いに「非があること」ばかりが原因ではないと思う。
環境とタイミング。
相手の境遇を受け入れられるかどうか、も大切な要素なのかもしれない。
⟡.·家族の話
数年前、とある出来事がきっかけで
家族全員の心にぽっかりと穴が空いたまま
決して塞がることはなく、もやにのまれたまま。これからも心から笑える日はないのではないかと感じている。
特に最近は両親の喧嘩が耐えない。
私は毎日のように、
部屋に籠りイヤホンをして誤魔化している。
それでも拭うことが出来ない程、家中に声が響き渡っている。
両親共に「浮気」という言葉を簡単に口にするようになってしまったし、
ここには決して書くことができないような醜い言葉の数々を耳にするようになった。
私と10違う小学生の弟や
思春期真っ盛りの妹が悲しい気持ちにならないようになんとか工夫をしていたが、
いずれ、少し限界がきてしまった。
両親に強い言葉をぶつけて、
無心でスーツケースに荷物を詰めて
家族と縁をきろうとしてしまった。
しかし、すぐに妹に止められてしまった。
勢いで行動していることを注意されてしまった。
これまで散々きょうだいのことを考えてきたつもりだったのに、
結果的にきょうだいに1番悲しい気持ちをさせたのは私だったのだと、罪悪感に押しつぶされ、自傷をしてしまい、無限ループ。
ふと脳裏に浮かんだのは、
両親が愛情を込めて接してくれた思い出たち。
私はどうしても、家族から離れられないのかもしれない。
どうしたって、家族のことが好きなのだから。
直接危害を与えられているわけではない。
毒親だとは思わない。
「限界」だなんて
一瞬でも思ってしまったのは甘えだろうか。
私は今後、どうなっていくのだろうか。
「家族」だからといって
決して消えない関係とは限らないのだから。
まとめ
しゃぼん玉は
人間関係に似ているかも、とおもった。
ほんとうは透明な、曖昧なもので覆われている関係のまま、中身の虹色に馳せて、繋がりたいと願う。
繋がりを求めるために「信頼」し、
相手に縋り、苦しめるように、苦しむように
人と接することは常にしゃぼん玉を飛ばす連続。
しゃぼん玉を美しいまま保管するには
その透明をも互いに尊重することができるかどうかなのかもしれない。
そう。ほんとうは分かっている。
永遠の何かがあるなら、それは紛れもない奇跡だということ。
奇跡が見れたらそれはすごく幸せなことに思う。
人間関係はけっこうホラーなもので、
私がこれからどう歩いていけばいいのか
歩くのか
信頼なんて吐きたくないけど、
ただ私は周りにいる今大切だと思える人々との時間を過ごせる分だけ、存分に過ごして、
プツリと消えてしまうまでは
人生、楽しみたいなとおもう。
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勢いで書いてしまった文章です。
最近あまり更新できていないのは
たぶん、今人生の節目にいて、悩むことや考えることが多い分、ふわふわした文章しか書けないからです。
実は今年の春にBPDと躁鬱の診断を受けました。
まだ診断を受けてから日が浅く、どのように疾患と接していけばいいのか分からずにいます。
主に人と接するときにどうすれば良いのか
うまく行動ができずにいるときに
どう対処すればいいのか
これまでと何ら変わらないはずなのに
診断を受け、肩書きがついてしまったことで
囚われて悩んでしまっている自分がいます。
あまり良くないかもね、笑
自分の中で考えがしっかり纏まっていないから案の定この文もふわふわと浮いてしまっているような気がしますが…。
この頃よく考える
「信頼」するってどういうことなんだろう…ということに重きをおいて綴ったつもりです。
ほんとうの意味で自分自身と向き合い、
相手にもきちんと自分自身について伝えて
互いにあまり無理のないようにうまく付き合っていけたらいいなぁと思っています。
しかし、そうやってお付き合いをしていくうえで生まれる葛藤は必ずしも疾患のせいばかりでないことを知っているから。
いきついた先が全て運命なのかもしれないと思います。
限界がくるまでは、今を楽しく生きることができたらそれが今の幸せになるのではないかなぁと感じています。
目の前にある今1番大事なことに目を向けて
行動出来たらいいな。