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散文:秋

人間は散文の生き物なのだが、秋は特に散文だなぁ、という思いがある。のでたまにはオチもない散文を置き続けるのもいいと思った。そんな秋の散文たちのまとめです。


百日紅日は差して、黒揚羽宙に舞い、神は地にいなくとも、世はすべて流れるままに。
(百日紅が咲き乱れる道や庭を見て思ったピッパが通るのパロディ文。「あたらよりぐが通らなくとも」)



夏は夜って清少納言は言うけどわたしの夜は秋かもな。散歩に行ったけど泥のような闇で歩くたびにずぼん、ずぼん、って黒い闇が水飛沫と泥のように跳ねていくような暗闇だった。電気がないところではこの世とあの世の境界線が全然ない感じ。今度夜を歩くときは長靴がいりそう。沈んでいかないように。


虫はかなり平気な方なのに、カメムシだけがどうしても得意になれない。香りに敏感な節があるので、匂いが出るというあのギミックの怖さなのだろうか。しかし最近タガメはカメムシの仲間であることを知る。タガメは格好いい。口周りが特に。
あと江戸時代に高野聖で呼ばれていたことや夏のタガメの季語として高野聖と呼ばれているのももまた美しい。水の中の高潔な昆虫と言う感じがする。水中で念仏を唱えるタガメはいるだろうか?では、カメムシは念仏を唱えるのかな。


夜道怪という怪異がいる。子取り、神隠しの一種であり柳田国男は高野聖のこととしている。しかしタガメが高野聖と呼ばれているのなら、わたしが夜道怪をデザインするときはタガメモチーフにしよう。かっこいいし。


柳田国男(やなぎたくにお)をうっかり「やなぎだ」と言ってしまうことがある。こういうとき父にとても厳しく指摘される。父は言葉に厳しいから、やってしまった、といつも思う。こういう、とき、゛はどこから来て何処へいくのだろうか。知らす知らすのうちにいなくなっているときもあるね。とこへ行っていていつもとってくるのだろうか。



病院に行く。傘を差さなくていいくらいの霧吹きのような雨。霧吹き雨。そのまま傘を差さずに歩く。黒い薄手のセーターに小さな雨粒がきらきら付いていて、体に霜が下りたみたいだった。なんかいいな、この状態、この前観た映画の劇中歌のワンフレーズを思い出す。"くるくるまわってきらきらと"
今日のファッション、霧吹き雨コーデ。


友人が庭に対して反魂の魔法を使ってくれた。本当の魔法使いはそこらへんにいる。わたしの知らない魔法はそこらじゅうにある。魔法はいつだって視界の外側に。だからみえないのだ。

そういえばわたしは家族に使う手品がありそれのことは「手品」と呼ぶ。
魔法ではないのだ。


水飛沫と泥のように跳ねていくような暗闇はいつの間にか金木犀の匂いを纏っているどころか、乗っ取られて暗闇は金木犀になった。暗闇に情報が上書きされたのだ。傘を差せば金木犀の花が付くだろう。金木犀が降り、そして金木犀に沈んでいる。そんな暗闇。


金木犀の香りも無くなった頃、また暗闇は手を伸ばす。チャリで切り裂くように走るが、それは暗闇の薄皮1枚も切り裂けていない。ただただ、家に着くまで沈みながら進む。


好きな曲HIPHOP曲、『真っ向勝負』の歌詞に「敵は自分とか寒いこと言わずに越えたいあいつの背中」という歌詞がある。格好いいけど、こんなこと言ってしまったら後々バトルや別の曲とかで敵は自分、という旨の台詞を言ったとき突っ込まれるんじゃないの、と心配になる。わたしが心配する必要はないのだが……そんな心配をよそにKEN THE 390は『Overall』したり『衝突』したりしている。すごい。


とても素敵なわたしのガーディアンの、カーディガン。いつも守ってくれてありがとう。愛してる。


ひどいとき、1秒前に言われた言葉にモヤがかかるというか、その瞬間理解するのだけどその次の瞬間わからなくなる、ということがある。ぼかしがはいるというか、映画の前のシーンを理解した瞬間、あれ、なんて言ったっけ、ってなって巻き戻す。
何か言われたことや何か言ったことは覚えているのだ。しかし内容を覚えていない。ゆっくり記憶が欠けていくのはサイダーの泡が抜けるようだと思ったが、これは違う。ふ、と蝋燭を吹き消されるような気持ちだ。毎回「ああ、消えたのだ……」と言っている。アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパー。アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパー。死神は蝋燭の前でにたにたと笑っていた。


拙文を散らす行為を、拙分という儀式にしたらどうだろうか?


去年メキシコ展でお迎えしたククルカンのペンケース(わたしはぬいぐるみとしてお迎えした)にお世話になっているから名前をつけることにした。くくるぱぱろん、またはくくるぱぱーろ、という名前だ。ククルカンのくくる、と蝶という意味のパパロトル、でぱぱろだ。メソアメリカでは蝶や蛾が火に飛び込む行為を自己犠牲的な英雄的行為として称えられており、死んだ戦士の魂は蝶になって楽園に行くと考えられていた。だから蝶を意味するパパロトルをつけた。わたしは戦士ではない。わたしは何になるのだろうか。しかし燃える蝶のように生きれたら、どんなに美しいだろうか。小さな神様、どうかわたしを見守っていてください。


冬の匂いがしてきましたが皆様にとってどんな秋でしたか。わたしの秋は、新たな魔法と魔法使いに出会った、そして家がまた波打った、そんな秋でした。家が波打ってないときがなくないというツッコミはそれはそう。それでも、かけがえのない瞬間を抱えて生きていくし、忘れたくないような美しい時間だってあるのです。それに靄がかかったとしても、美しかったことを覚えていたい、と思う。振り返ってそこにモザイクがかかっていたとしても。


さいごに、秋のいい写真を。

道路で見かけた、「なにものかの痕跡」

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