人は神を見出し、そして神から人を見出す。
2021年末だったと思う。「うみねこのなく頃に咲」のシナリオ、「Last Note」をプレイして心に残ったシーンのひとつにこちらがある。
そうしてそれから半年後あたり、2022年夏、Fate/Grand Orderの夏のイベント「アークティック・サマーワールド! ~カルデア真夏の魔園観光~」でこの様なテキストに出会う。
人でないものが人のかたちを取ること、について触れられているテキストで、心がぎゅうとなった。この考えは大事にしようと思った。
アミニズム的(あくまでそのものではなく、的。八百万の神だったり、万物に神が宿るという考え方であったり、神でなくても、色々。)考えが好きだと思う。ぬいぐるみは動くし、万物に心は宿る。人でないものも生きているのは当たり前で、しかしその当たり前はまた奇跡のようなものでもあると思っている。noteで言葉のことを生きものと表しているのも、それの延長な気がする。
今回のうみねこやFGOの例からすると、
「人の思いが人でないものを生み、人でないものから人を見出す」という流れがある。
だからあくまでこれはアミニズムの延長であり元の位置に近いとこと(近いところだ。同じではない)への戻る行為になるとわたしは思う。
ここには「神」や「魔女」が最初からいるわけではなく、あくまでそれらを我々が生み出したことから始まっているから、「戻る」という感覚になるのだろう。
最初から神がいる、という状態もあるだろう。その神が人を形取るのが、人への思い故であれば、それはアミニズムの逆かもしれない。
ただわたしは神はあくまで人が見出すもので生み出すものであると考えているので、「延長線上」がしっくりくる。
物質から精霊や神を見出すことはアミニズムだ。では神から人を見出す行為は何と呼ぶべきか。
調べたり思い当たりを考えてみたりするのだがまだ納得行く言葉がないので、もし心当たりがあったら教えて欲しい。
それはそうと話は変わるが、昨年観た映画「悪い子バビー」に『神を忘れるのが我々の使命だ』と主張する科学者がいて、そいつの存在と台詞に殴られたことを覚えている。
※悪い子バビーを一度しか観ていないので細かい台詞を間違っていたらごめんなさい。
神様なんていらないというより、それは「悪い子バビー」全体を通して考えたとき、支配はもういりません、運命なんていりません。わたしたちは勝手に生きていきます。という宣言であるようにも取れたと思う。
神様を見出すのが簡単な人もいれば、神様を忘れるのが簡単な人もいるだろう。わたしはどちらだろうか。多分、薄情なわたしは自然に、呼吸をするように両方やっていて、今日も神を見出し、明日も神を忘れてしまうのだ。
一応、今回出てきたうみねこのなく頃に咲のAmazon購入リンクを貼っておくことにします。
うみねこのなく頃に咲はうみねこのなく頃に出題編から解答編とおまけ、咲用の追加シナリオが全部収録されているものです。
うみねこのなく頃に 咲
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↓こちらはCS版 フルボイスだったり立ち絵が違ったり、家庭用ゲーム版になっているので表現がやわらかくなっていたりするらしいです
例 知的強姦者→知的蹂躙者
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本当はここにリンクを貼りたかった悪い子バビーは円盤化されていません。悪い子バビーの円盤化をずっと待っています。
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