見る。
すぐ側で、見ていてもらえるだけで私の能力が引き出されてくるように感じる。
そんな体験を、はっきりと感じたのは高校生の頃です。
当たり前な話ではあると思うのですが、私にとって大切な思い出だなぁと思っているので、このエピソードを書き残しておくことにしました。
ほんの一時期だけ、女性の先生に数学を見てもらっていたことがありました。その先生は、ある大学を首席で卒業後、やっぱり小学校の教員になりたいということで別の大学で勉強をしていました。いつもとても落ち着いていて、さっぱりとしていて、穏やかな話し方で、ショートヘアな先生は文武両道の人でした。
何を話したかは、ほとんど覚えていません。覚えているのは、先生の声は安心できて、あまり好きでない勉強をしているにもかかわらず、その時は気分が良かったことくらいです。
嫌いな数学の問題を、何故か気分良くひたすらに解いていました。
たしか、時折、何かアドバイスもあったような。。。でも、それよりも、私が解いているのを、ただただ静かに見ていてくれた記憶の方が強く残っています。ほとんど話さない人でした。
なんだか、それで、とにかく安心をして、スピードを上げて問題を解くことに没頭していました。
そんな先生を尊敬していたし、会えるのを楽しみにしていました。
ほとんど話さないけど、「ちゃんと見てるよ」という意識を感じられるだけでよかった。
その時は自分の知らなかった一面を発見できた事が純粋に嬉しいと思っていました。その時には微塵も認識していませんでしたが、今振り返ると本当は淡い恋心みたいなものが芽生えたことにより、好きな人の前だから頑張れただけなのかも?と思ったりもします。
仮にそうだとしても、「見る」というのは、すごいエネルギーだなぁと思うのです。
そんな事を思い出したのも、youtubeでホニャララLIVEに出ていらした加茂谷真紀さんの回と、ご著書「愛のエネルギー家事」の内容が、少し前に学んでいた身体や調理の講座とヴィーガンレストランでお手伝いをしていた時に学んだ事とが重なったからでした。
生物、無生物関係なく。その対象を見ているだけで、彼らの能力が引き出され、その魅力が顕になるように感じるのです。
単に目で見るというよりも、心の目で見るという感じで。彼らの音に耳を澄ます。自分の身体の水に映し出すように感じ取る。どんなふうに調理するといいか聴く。
そんな感じのことをしていると、彼らと一体になったような感覚が私にも微かに生まれてきました。共同創造は対人とだけではない。創造する行為への深度が深まった喜びがありました。
だから、「ちゃんと見てもらえている」それによって「自分が引き出されている」という経験が、短い期間ではあったのですが、私の中でしっかりと植え付けられていた事がとても大事な事だったのです。
あの先生は、今もまだ、きっと、子どもたちを静かに見ているのかなと思うと、私の中に平安が宿ります。そして、私も静かな心で愛でるように見たいと思います。