クノタカヒロ「複数のシェフチェンコ」2012.6/12
シェフチェンコとは誰か。
多くのウクライナ人にとって、この問いには二つの答えがあるという。
ひとつは「詩人のタラス・シェフチェンコ(1814-1861)」宇都宮徹壱の『シェフチェンコ 誇りを胸に』によれば「帝政ロシアに抑圧された、自民族の悲哀を詠った」この詩人の名は今やキエフのメインストリートにも刻まれており「市内には彼の銅像も記念館もある」そうだ。
つぎに「サッカー選手のアンドリー・シェフチェンコ(1976-)」ウクライナのサッカー史上、最も多くの得点を重ねた彼のことをひとびとは敬意を込めて「ウクライナの矢」または「シェヴァ」と呼ぶ。
シェヴァとブロヒンという二本の「矢」が他国に向けて放たれる。大会を前にウクライナのひとびとが思い描いていた絵図の鮮やかさは想像に難くない。自国開催、EURO本大会初出場、シェヴァ最後の代表戦という画材を加味すればなおさらに、である。
そして、2012年6月11日のグループリーグ(※以下、GL)初戦、ハイライトは突然に訪れた。この日、キエフのオリンピック・スタジアムでスウェーデン相手に彼が決めたふたつのゴールは、すぐに世界へと広がり、やがて語り草となった。
例えば、日本への伝わり方はこうだ。
「“35歳”のシェフチェンコがふたつのゴールを挙げて、勝利に貢献したそうだ」
「試合後のインタビューで彼は“20歳になったみたいだよ”と言ったらしい」
試合の当日から翌日にかけて、twitter上で一時「シェフチェンコ/Shevchenko」というワードがトレンドになるほどに、多くのひとびとが「ウクライナの矢」に見とれ、その軌跡を誉めたたえた。まるで「人生の疲労は年齢には関係がない」といった安吾(『いずこへ』)の言葉などなかったかのように。
インタビューの中で彼は何を語っていたのか。試合後、何人かの知人に尋ねたところ、およそ次のような答が返ってきた。
「問題の“Сегодня я помолодел на 10 лет”という部分、すなわち“20歳になったみたい”と訳された部分だが、それよりも“Today I am 10 years younger”つまり“今日、わたしは10歳若返ったようだ”と訳した方が正確だ」
「次の“Из-за травмы колена”という部分も同様に“Due to a knee injury”すなわち“膝の怪我のため”」と。
“10年前”といえば、ちょうど彼が最初の膝の怪我から復活を遂げた頃である。
上のキエーボ戦でのゴールの後、シェヴァは徐々にコンディションを取り戻していった。同書にはその過程がミランのフィジカルコーチ(ダニエーレ・トニャッチーニ)の言葉とともに強調されている。「ジャンプ力の測定に、垂直飛びというテスト項目がある。以前は50センチしか跳べなかったアンドリーも、今は60センチに届くほどだ」
復帰後、以前よりもヘディングでのゴールが増えたことを引き合いに彼の「維持管理」の徹底さを報じる記者もいたという。そして、ハイライトはシーズンの終盤に訪れた。CLのGL、レアル・マドリード戦(@サンシーロ)そこで挙げたゴールによって、彼はロッソネーリの伝説となった。
もちろん、これらはひとつの見方に過ぎない。
「GLのゴールよりも決勝のユベントス戦で決めたPKの方が意義深い」「いや決勝後のスーパーカップ、ポルト戦での決勝点の方が印象に強い」などティフォーゾによって、記憶の明度は様々であろう。
続く2003-04シーズン、彼がセリエAの得点王となってチームを優勝に導いたことも、その年のバロンドールに輝いたことも、また“20歳”の彼がウクライナ代表での初ゴールを決めたことも、総じてそれらは誰かにとってのハイライトであるに違いない。
だからこそ、逆説的に言おう。ハイライトはひとつではない。だからこそ、誰にでも見立てることができる。
若さ=“20歳”の押し売りと同時に、日本の「シェヴァ」をもアイドルに仕立て上げる。以前に『ク・ジャチョルのパンツ』を書いた頃から国内のサッカージャーナリズムは何も変わっていない。「だが、現状を嘆くよりも」見立てを変え続ける方が「はるかに実践的であろう」
大文字のメディアがかつての役割を終えたいま、要されるのは間隙を縫う手つきに違いない。縫い方は歴史が、矢の引き方は複数のシェフチェンコたちが教えてくれる。
シェフチェンコとは誰か。
わたし/あなたにとって、この問いには無数の答えがある。そのうちのひとつ「詩人のタラス・シェフチェンコ」冒頭に添えた詩には以下のような続きがある。
2012年6月19日のGL最終戦、幻と消えたデビッチのゴールが認められていたら、その後、シェヴァが再び試合の決着をつけていたら「すべての敵の血潮」は「青い海」へと、おし戻されたのだろうか。問いに対して、わたしは否と答えたい。
祖国の独立にもオレンジ革命にも立ち会えなかったタラスと同様にアンドリーもまた女神の「みもとにかけのぼ」ることは叶わなかった。だが、歴史を辿ったとき、それは同時に「自由」を巡る闘争の継続を来たるべき革命の反復を意味する。
その瞬間まで複数の見立て=差異を持ち続けること。手がかりは論旨に分配できたはずだ。そして、その手つきはすべてシェヴァから学んだものである。
シェヴァの幸運と健康を感謝とともに心より願う。 2012.6.21