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開拓を願われた神様の今

美しい北の大地、北海道。その土地は夏は儚いほどに短く、冬は凍てつくほどに厳しい。
JR北海道もまた、経営が厳しいことで知られる。廃線だけでなく廃駅も年々行われている。

北海道の第二の都市の旭川と最北端である稚内を結ぶ宗谷本線もまた例外ではなく、全駅の半分以上が廃止候補に挙がっている。
2025年春には「抜海(ばっかい)駅」「雄信内(おのっぷない)駅」「南幌延(みなみほろのべ)駅」の三駅が廃止されると噂されている。

抜海駅。雄信内駅とともに北海道に残る数少ない木造駅舎。2024年で100周年を迎える。地元民による存続の要望も強いが、稚内市が廃止を宣言している。

以前、鉄道で一度、札幌から稚内まで特急宗谷で数時間かけて北の果てへ向かい、道北を探索したことがある。そのときにこの三駅にも立ち寄ったことがある。少し遠くに海を感じる抜海駅、雄大な牧草地にポツンと配置される南幌延駅、自然に侵食されてわずかながら表通りの面影が見える雄信内駅…。
どこも北の大地らしい駅で趣があり、それでいてどこか寂しげな印象はよく覚えている。

南幌延駅。板張りだけの非常に簡素な駅。近くには牧場のみ。
南幌延駅の待機所ではささやかに地元民に愛されている軌跡が見れた。
雄信内駅。雄信内の中心街から離れている。
周辺には商店が立ち並んでいたとされるが、現在はゴーストタウンになっている。

さて、既に道内の廃駅は数知れず存在するが、廃止になった駅のその後は様々だ。その答えの一つが牧草地の真ん中にある。
それは奇しくも廃止となる「雄信内駅」ー「南幌延駅」間にある。二駅の間に「安牛(やすうし)駅」と呼ばれた駅があった。2021年に廃止された駅だ。
その駅跡前に神社があることを知り、訪れるに至った晩夏の記録だ。

どこまでも真っすぐ続く北海道特有の道を辿っていくと、傾いた看板が見えてくる。ここだ。もうその先には存在しない駅の案内板だと思うと物悲しさがある。
看板に従って何もない荒地の先を進むと駅舎の跡が見えてくる。

安牛駅と書かれた看板。傾きが哀愁を誘う。

見た目はコンテナのような駅舎跡。これは「ダルマ駅」と呼ばれるもので、貨車を再利用している。特に北海道で多く見られ、その多くは過疎駅を占める。ある意味絶滅危惧種ともいえる。このような駅も半世紀後にはほとんど見られなくなっているかもしれない。

旧安牛駅駅舎。線路から少し離れたところに置かれていた。

放置されているように見えるが、中は思いのほか掃除がされていて訪問ノートが置かれている。
それ以外は駅から見えるものにはめぼしいものはない。そよぐような夏の風に電柱のケーブルと生い茂る藪が揺れているだけだ。

安牛駅跡のメイン通り。ただの荒地の中の道に見えるが…

何もない。
…しかし、かつては少なくとも「集落として存在した場所」であった。
何もない道路の両脇には十数軒の家が建っていたという。少なくとも2000年初期までは住民がおり、生きた集落が残っていたという。四半世紀の時間がこの集落の痕跡をほとんど消し飛ばしてしまった。
あまりにも何もないため、文献と照らし合わせたときは目を疑うほどだ。

安牛駅周辺の地図。線路前に四軒の建物が記載されるが、全て現存しない
(国土地理院地図 より)

安牛周辺の開拓は明治33年頃から始まったとされている。主に岩手・宮城・新潟・富山からの入植者によって開拓され、最盛期の世帯数は隣の南幌延駅周辺と合わせて80戸におよび、昭和中期に400人近くが住んでいたと言われている。この頃の北海道は人口が急激に増えた時代だ。まだ石油ではなく石炭がエネルギーの主流であったため、道内の石炭資源を運ぶために大量の鉄道網が敷かれていた。
この周辺地区は石炭を掘る旨味が少なく、安牛は結果的には小規模の農村集落だったとされる。しかし鉄路の恩恵を受け、緩やかに営まれた集落だったとされる。
駅から少し歩いた場所にかつての小学校跡がある。子供がたくさんいた証でもあるが、今は広い土地にぽつりと石碑と集会所のみが存在している。

安牛小学校跡地。1982年閉校。現在では集会所が建っている。
集会所左側に体育館と立派な校舎あったとされるが現存していない。

さて、目的の神社である。神社は集会所の隣にあるはずだ。そう思って足を進めたが、入り口の前で立ち止まってしまった。
かなりの藪に覆われていた。入るのに躊躇するような草むらにぽつりと傾いた鳥居が建っている。
藪は好きではない。マダニが潜んでいることもあるだろうし、何より下手をするとヒグマとこんにちはする可能性もある。

しかし、それでも獣がいないか最大限の注意を払いながら参道をかき分けることにした。このためにここに来たのだ。引き返すわけにはいかない。幸い、目的の建物はすぐに見ることができた。

赤い屋根の社殿が見える。
祭神は天照大御神。祭日は6/14~6/16とされるが、現在も行われているかは不明。

素朴な神社が建っていた。赤い屋根が映える美しい佇まいだった。
嬉しい出来事もあった。よく見ると、神社の階段口がつい近年に修繕されたような形跡があったのだ。近隣の人の手でまだきちんと祀られているのかもしれない。

明治36年に創立されたとされる神社。この地の開拓と繁栄を願って祀られたと言われている。
確かにここが開拓され、安牛集落の中心栄えていたという証がある。

ところでこの神社の名前。安牛駅のある地区は昭和34年に後に住所が改名されているが、神社はその地区の名前と同じものとなっている。

「開進」神社。

文字通り、開いて進むと書くように、神社にはかつての人々の開拓に対する前向きな希望が名前に示されていたのだ。

開進地区には開拓のための道路がいくつも敷かれていた

いずれこの場所は駅や神社すら消えてゆき、何もなくなってしまうかもしれない。
それでもそこにあったフロンティア精神は北の大地の記録に残り続けると信じていたい。
小学校跡の石碑に書かれていた校歌を最後にこの記事を締めくくる。

青空よりも晴れ渡る
われらの心明るく清し
天北原野の緑の中に

安牛小学校跡碑 校歌 より


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