最期に故郷に残した神社の話
古い集落を探索していると、よく昔あったものを耳にする。
「温泉宿があった」「郵便局があった」「棚田がどこまでも広がっていた」等々。
それらの集落を構成していた要素が徐々に消えていって、ついには集落そのものが維持できなくなったとき、果たして最期に残るものは何が多いのか考えることがある。
集会所、蔵、バス停、作業小屋、墓……。
そして、きっと神社もその一つだろうと思っている。実際、車で山奥を走っていると山道にぽつんと神社が建っているのを見かけるが、後で調べるとかつては小さい集落を形成していた場所だったなんてことがある。
前置きはここまでにして、今回はそんな残された神社の話をしていくとしよう。
その神社は福島県の県道沿いにぽつりとあった。以前、地図で⛩の印を見つけたもので、何気なくグーグルマップにピンを建てていた。たまたま旅先でその付近にいたので、せっかくだからそこにお参りしようと赴いた。
神社につくと、ちょうどその頃はススキがあちこちに生えていて、少し冷たい風にそよいでいた。少し強くて寒い。そろそろ冬の訪れが近いことを示しているようだ。なんとも寂寥感が募る空間だった。
赤い鳥居と小さい社殿は目新しい。鳥居の色はまるで磨かれたランドセルのようで、社殿も若々しい木目の色をしている。実はこの神社、令和になってから再建されたものだ。
なぜ再建されたのか。……それは、この神社は故郷と共に消えたからだ。
ここからは人によっては大変苦しい話となるので、もし気分が悪くなられたら、このページを閉じることを推奨したい。
この神社のすぐ目の前には海岸が広がっている。つまりここは福島県の海岸沿いにあるということだ。
2011年3月11日。宮城県沖で発生した「東日本大震災」によって東北沿岸部で津波が発生した。
そう、ここまで言えばお気づきだろう。
かつて、この周辺は浜辺の海が見える漁村だった。
だが、震災によって、この神社は数十戸の家屋共々、まるまる海に飲み込まれてしまったのだ。
甚大な被害に無念にも集落が再建することはなかった。
集落が一日で消え去った無念は境内にはっきりと刻みこまれている。
社殿に視線を向けると、小さくも丁寧に手入れがなされた祠のすぐ横にひときわ目を見張るものがある。当時の被害状況の資料と写真だ。
全ての書かれていた文章を直接文字起こしするのはここでは控えさせていただく。ただ、その量はすさまじいもので、津波の浸水状況、ひとつひとつ消えた家の場所、そして震災直後の様子までを凄惨な写真の数々が消え褪せぬように記載がされていた。
写真には丁寧に一枚づつ、キャプションがつけられていて、消えた故郷へのすさまじく強い情念が感じられた。自身の感情が息が止まるほどに引き込まれていた。
震災遺構と呼ばれるものは東北の太平洋の海岸沿いに数多くある。例えば仙台市の荒浜小学校、宮古市のたろう観光ホテルなど……自分もいくつか見学したことがあるが、この神社は小さいながらも、そのどれにも引けをとらないような気迫がこめられている。
改めて境内の外に出る。
恐らく集落が密集していたところを見渡す。一面植物が生い茂っているのみだ。もう住めない場所となってしまった集落跡には防潮林を作るために植樹がなされている。年月が経てば一帯は鬱蒼とした林になり、自然へと完全に還ってゆくのであろう。
それでもここに集落があった証を残すために、元々住んでいた人たちは今も神社を建て、祭りを行い、信仰を続けているのだ。
故郷が消えても、そこにいる人々の思いが変わらず残り続ける。仮に月日が経って、その場所に何もなくなってしまっても誰かの手によって記録が残り続ければいいとふと思った。
最後に境内の石碑に記されていた一文を引用する。
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