21.10.31 愛と資本主義と或いは、世界の終わり
なんだか最近何が1番僕を苦しめてるのだろうと考えて、たどり着いた答えが資本主義だったのです。で、次が愛でした。
僕はこの通り永遠恐怖症だから、
果てのない欲望
果てのない意識
果てのないエネルギー
全てが恐ろしいのです。
ある春、僕は魚喃キリコにどハマりしていました。
そしてそのまま、好きな人の好きなものを全部知りたい性分の僕は、彼女の作風に特に影響を与えたという岡崎京子の『Pink』を熱心に読んでいたのです。
その帯に目をやると、なんと「愛と資本主義」の文字があったのです。
『Pink』を読んで正直なとこ、10年代に思春期を迎えた僕にとって、90年代はあまりにも生きる背景が異なるせいか、愛や資本主義というものは「希望」ではなく「絶望」の代名詞に思えてしまうのです。
そして、そしてある晩のことです。
僕はドレスコーズというバンドで頭がいっぱいになって、夜な夜な新旧の作品を掘り返していたのです。
そうして目の前にスルッと現れた灰色の男がいました。
「愛と資本主義」の時代が終わった先の人間こと平凡さんを見つけてしまったのです。
デヴィッド・ボウイがジギー・スターダストに変貌するように、志磨遼平は平凡さんに飲み込まれていたのです。
(志磨遼平は岡崎京子のフアンだと知り、僕はあれやこれやの点と点が結びついて、いわゆるスピっていた。)
そして、
愛と資本主義の終わった先の平凡さんはまさに僕の「希望」かもしれないと思ったのです。
けれども、僕が夢見た愛と資本主義が消えた先は、社会主義、共産主義的国家、つまり平々凡々、全員足並み揃えた世界だったのです。
今の僕の苦しみは「愛と資本主義」によるものだけれど、幼い頃からのもっと長い苦しみの原因はそれはまさに足並み揃える「平凡さんのディストピア」だったのです。
「愛と資本主義の時代」は終わっても「平凡さんのディストピア」が浮き彫りになるばかりの世界に絶望した僕に、ドレスコーズ は次の作品で世界の終わのパーティーに招待してくれました。そしたら本当に例のウィルスによって今までの世界は一度終わって新しい世界の誕生です。それはなんとも今のコロナの世界だったのですが。
大声を上げることはいつだってできないけれど、僕はこれで良かったと思うのです。
「愛と資本主義」が「平凡さんのディストピア」がそのどちらかが膨張し続けていたら、僕は本当に耐えきれなかったと思うのです。
ドレスコーズはいつも音楽で僕らをどうにか生かしてくれます。
ディストピアをファンクに変えて規律的快感に。世界の終わりをジャズに変えて美しい悲鳴に。そして、新しい世界の誕生はまるで地球が誕生したビックバン直後の嵐の下の熱い海水の中みたいに、温かいピアノで静かな戦争の中の僕を癒してくれました。
ああ、志磨遼平の芸術に出会えて良かった。
人間様がひねり出す最後の言い訳に救われてしまうのです。
目覚まし時計に設定した遺言のような歌で僕はどうにかこの世界にまた目覚められるのです。
病める時も健やかなる時も、
これからもどうか傍にいてください。
あれ、
いつのまにかラブレターみたくなっていました。
それでは、また。きみをあいしています。
P.S
二番目の愛について説明するのも忘れていました。いえ、説明するに至る術が僕にはまだないのかもしれません。
志磨遼平が愛に事故ったというように、僕も彼ほどではないかもしれないけれど愛に事故った心当たりがある。今はただそうとしか言いようがないのです。
#日記 #エッセイ #コラム
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