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わたしたちの オノマトペ

これはフェンリルデザインとテクノロジー Advent Calendar2024 13日目の記事です。

きみのはじめてはオノマトペ

まだたくさんの言葉を持たない2歳半の息子とのコミュニケーションは、想像していたよりもハードです。

すこしだけ言葉が得意なはずのコピーライターという職業も、幼児の前では無力。

たとえば忙しい朝。牛乳が入ったコップの中に手を入れてこねくり回す子どもに対して、瞬間的に「やめて!」と、否定的な言葉を投げてしまいます。

「やめてほしい」と思うのは、片付けが大変だったり、出社に遅れてしまったりする大人の都合であって、子どもにとっては関係のないことなのに。

牛乳を手で回すのめっちゃ楽しいヒャッハー!という体験を尊重してあげたい気持ちと、とにかく一刻も早くやめてほしいという、全く違うベクトルの感情が同時に存在している…。

そんなとき、お互いにとっての健康的なコミュニケーションを、オノマトペが助けてくれることがあります。

「牛乳は手でピチャピチャしないんだよ。お口でゴクゴク飲むんだよ。」

「ゴクゴク」音の響きのおもしろさに、飲むことに関心を戻してくれる(場合もある)のです。

(場合もある)という、やや消極的な表現になってしまいましたが。事実、これが成功するのは32回に1回あれば良いほうです。

残りの31回は、子は牛乳をさらに強く混ぜてコップごと床にぶちまけたりしているし、わたしはオノマトペなど忘れて「なにをしてるね〜〜〜ん!」と絶叫しているので。
(でも、そのたった1回が、答えのない育児の大きな励みになる)

まだ語彙が少ない幼児にとってオノマトペは、直感的に理解しやすいだけではなく、発声しやすい“音”として認識し、言葉の幅をひろげていくきっかけになると言われています。

大人が子どもに対して、ほぼ無意識のうちに「ブーブー(車)」「わんわん(犬)」などのオノマトペを使って話しかけることは理にかなっているんですね。

オノマトペってなに?

ということで、オノマトペについて書いていきたいと思うのですが、オノマトペってそもそもなに?ということを整理しておきます。

オノマトペは、擬音語と擬態語の総称。「国語の授業などで熱心に勉強をして身につけた」というよりは、日常の中で自然に身についていくものが多いような気がします。

擬音語:ニャーニャー(猫)/ごろごろ(雷)
生物が出す音や、機械、自然の音など実際に聞こえるものを模写して表現する。

擬態語:ニッコリ(笑う)/しくしく(泣く)
実際に音として聞こえない雰囲気や状態、感情などを表現する。

世界的に見ても日本の言語にはオノマトペが多く、日本語オノマトペ辞典には、約4500(!)もの言葉が収録されています。

日本語には「動詞」が少ないためにオノマトペで補助して表現を豊かにしていると言われていますが、英語のオノマトペも同様に豊富だという考え※1もあります。

※1.小倉慶郎,2016.「日英オノマトペの考察 : 日英擬音語・擬態語の全体像を概観する」(2024年12月13日取得, https://doi.org/10.18910/56957

会話の中で「今オノマトペを使っている」と意識しながら話すことはあまりなく、感覚的に繰り出されるものだと思います。
なので、話し言葉の癖と一緒で、知らず知らずのうちによく使っているオノマトペがあるはずです。

わたしはショックなことがあったときなどに、よく「ガーン」と口にしているようなのですが、配偶者から指摘されてはじめて気がつきました(昭和すぎる口癖)。

オノマトペは自由だ!

「言葉」は正しい解釈や使い方が示されていることが多いのですが、オノマトペは基本的に自由に使われるものだと思っています。
ルールはないし、辞書にはない新しいオノマトペを自分の感性で創作することもできます。

創作という観点で思い浮かぶのは、宮沢賢治と江戸川乱歩です。

作品の素晴らしさはわたしが語るまでもありませんが、彼らのオノマトペ表現についてすこし触れたいと思います。

宮沢賢治の「注文の多い料理店」の冒頭は、このようにはじまります。

二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いいながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」

宮沢賢治(1924)『注文の多い料理店』青空文庫,https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html(アクセス日:2024/12/13)

タンタアーン??なに???と思いませんか、わたしは思いました。
前後の文脈から銃を放った音だと読めますが、すぐに結びつけられる人はあまりいない気がします。

ですが何度か読むうちに、しんとした木々に囲まれて引き金をひき、山の中でこだまする銃声は、「バーン」ではなく「タンタアーン」に違いない、と感じてきませんか?
(「木の葉のかさかさしたとこ」という表現も、山の中のしんとした描写を際立てていますよね)

他にも、馬を先導する鈴の音を「ツァリンツァリン」、蜘蛛が巣をかける様子を「きぃらりきぃらり」など、思わず口に出して音を確認したくなるオノマトペがたくさんあります。

一方の江戸川乱歩は、不気味な物語をオノマトペでよりいっそう盛り立てます。

あるものは、デブデブと肥え太って、腐った肴の様な感触を与えます。それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨のような感じが致します。

江戸川乱歩(1925)『人間椅子』青空文庫,https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56648_58207.html(アクセス日:2024/12/13)

デブデブ、コチコチ。両極端にある人間の姿をそれぞれ嫌悪的に伝える表現として、これ以上のものはないような気がします。

乱歩が活躍していた大正〜昭和初期は、文学でもカタカナが日常的に使われていましたが、乱歩が使うカタカナのオノマトペは、とびきり不気味に感じるのはわたしだけではないはず。

宮沢賢治と江戸川乱歩、実は同じ時代を生きていました。生前は脚光を浴びることがなかった賢治と、当時から売れっ子であった乱歩が出会っていたら、影響しあっていたのではないかなと、夢想してしまいます。

2人のオノマトペに触れたおもしろい本があるので、よければ読んでみてください。おすすめです〜。

わたしたちのオノマトペ

視覚障害を持つ方にとってのオノマトペも、豊かなコミュニケーション、感覚的な理解を助けるものです。
視覚障害を持つ方に限らず、情報を伴うオノマトペの理解には「触感」が深く関係していて、関連の研究も多くあります。※2

※2.坂本 真樹, 田原 拓弥, 渡邊 淳司「オノマトペ分布図を利用した 触感覚の個人差可視化システム」(2024年12月13日取得, https://www.jstage.jst.go.jp/article/tvrsj/21/2/21_213/_pdf)

ヘレン•ケラーが、流れる水を触って「Water」を体感したエピソードは有名ですが、物体に触れることで得られる情報はさまざまあります。

たとえば手に触れる水の勢いによって「チョロチョロ」なのか「ざぶざぶ」なのか、あるいは温度が「キンキンに冷えている」「ほかほか温かい」など。

ただ「水が出ている」と言うよりも、「チョロチョロと水が出ている」という表現で伝える方が、一緒の景色を感じることができそうです。

駅で聞こえる音を表示するエキマトペや、競技中に鳴る音をビジュアル化するミルオトなど、聴覚障害者の方に向けた「オノマトペの可視化コンテンツ」も大変興味深いです。

このような取り組みは、非当事者が関心を寄せるほど長く続きますし、より良いものになっていくと思っています。

デザインとテキストには大きな力があるとも実感していて、自分にできることを楽しみながら見つけていきたいと思うこのごろです。


極端なことを言うと、オノマトペを使わなくてもコミュニケーションはできるし、絶対に必要というものでもありません。

それでもわたしたちは日々オノマトペを使っていて、より豊かに感情を伝えて、受け取っている。ということに、ニッコリしてしまいます。

2歳半の息子も、オノマトペでたくさんのことを伝えてくれます。まだ発音できない音や再現が難しい音があるので、自分が言いやすいようにアレンジしていたりしておもしろいです。

  • ピカピカ → ウカウカ

  • ひらひら → テロテロ

  • ガタンゴトン → たたんととん

などなど。
何度か繰り返し聞いているうちに「ピカピカのことだったのか!」と理解できる瞬間があって、子とコミュニケーションできる楽しさを感じます。

年齢や個性に関わらず、誰も置いてけぼりにしない。
みんなで共有する、わたしたちのオノマトペ。けっこう素敵ですよね。

あとがき

先日、家族で車に乗っていたときに、外に虹がかかっているのが見えました。
「ほら、虹だよ。お空からシューン!って、おっきいすべり台だね。」と話しかけると、はじめて見る虹に目を丸くしていた息子。

数日後、一緒に図鑑を開いているときに「虹」の写真を見つけた息子がこう言ったんです。
「とと くるま シューン した!」(お父さんの車でシューンを見た)

ああ、こうして言葉を、思い出をふやしていくんだ。

たくさんの「はじめて」をあつめて成長していく尊さに涙が出てしまいました。というかもう、号泣。ほとんど大号泣。

「伝える」ことに意味があったのだとうれしく思うと同時に、子どもが触れる言葉や思い出のほとんどを担う親の責任はやはり重い、とも感じます。

直接伝える言葉だけではなく、SNSなどで自分が書いた言葉も、回りまわって子どもの目に触れるかもしれない。自分の子どもだけではなく、誰かの大切な子どもにも。

きれいな言葉だけでは伝えられないこともあるかもしれないけれど、チクチクした言葉をあえて使う必要はあるのか。さまざまな場面で、よりいっそう言葉に向き合うことが増えそうです。

できるかぎりポジティブな表現で伝えていくことを、オノマトペが助けてくれることもあるのだろうな。