将来見たい景色って何だろう
将来っていつの話だろう
明日か
10年後の30歳か
20年後の40歳か
30年後の50歳か
40年後の60歳か
50年後の70歳か
60年後の80歳か
70年後の90歳か
あるいは、自分の死後か。
きっとそれぞれの時代で、それぞれの歳で見たいものは変わってくるだろうし、見え方も変わってくるだろう。
その時、自分の目には何が映っているだろう。
人か
風景か
あるいは内面か。
例えば、人を見ているとして、その人はどんな人だろう。何をしている、何しようとしている人で何を考え、感じているだろう。社会人だろうか、学生だろうか、生徒だろうか。あるいは自分の子供だろうか。そして、自分はどの立場からその人を見ているんだろう。自分の理想とする姿と、想定する未来と、変わらない現実とそれぞれ違うんだろうけど、どの立場であったとしても、目の前にいる人をちゃんと見ようとしているだろうか。
例えば、風景を見ているとして、そこはどこだろう。家の窓から見える住宅地だろうか、縁側から見える田園風景だろうか、あるいは森の中。その風景を見ているときの心情はどんなものだろう。
いつだって、自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、そのことを理解するには苦労する。苦し紛れに誰かのマネをしてみても、それは自分の望むことではないため、どこか不足感を感じる。この不足感を埋めるには、複雑奇怪な内面を探索し、言語化する必要がある。しかし、この作業は膨大な時間と気力を必要とし、なかなか終わらない。本当にこれでいいのかと自問自答に陥れば、抜け出すのが困難になる。友達に相談しても、軽く受け流されることがある。自分にとって重大なことでも、他人からしたらどうでもいいことになるためだ。自分で舵を握り、不安を受け流しつつ将来を進むには、修行が必要だろう。どんな修行が必要なのかもわからないが。
将来見たい景色って何だろう。