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祖母の買い物まち

今朝のことだ。週3で通院している祖母を迎えに行った帰りのこと。

病院を出るとき僕が帰りによるところはあるかと尋ねると、祖母はパンを買いたいからスーパーによってほしいと答えた。

スーパーに到着後、買い物の量は少ないためすぐに戻ってくるだろうと思い、僕は車に残り祖母の帰りを待った。

その時の僕は、趣味である読書や思考の世界旅行をするための、本や紙やペンを持ってきておらず、ただただ退屈な時間を過ごしていた。

祖母は20分ほどで帰ってくるだろうと予想していたが、それを越してもまだ帰ってこない。

店に探しに行くか、はたから買い物についていけば、こんな退屈な時間を味わうこともなかったのだが、その時のぼくは寝間着に上着を着た姿であったため、人前には出れなかったのだ。

そのようなことで、あとどのくらいで帰ってくるかわからない、終わりが見えない時間を過ごしていた。

人は、退屈というのが耐えられないほど苦痛なものである。

そんな苦痛を味わえば、それに似合った感情が生まれてくるのも自然である。

そのときの僕の感情はこのようなものであった。
「暑い」「イライラ」「長い」「退屈」「ムカつき」「焦り」「自分の時間を奪われた」​

太陽が昇り車内は暑く、退屈さにムカつきイライラし、祖母の予想を超える時間のかかりように自分の時間を奪われたと感じ焦っていた。

物語としてはここで終わり。


ここからは、解決策でなく、どうしてこのような感情が芽生えたかを探っていく。

少し前に、退屈で苦痛であるから感情が芽生えたと記したが、これは極めて表面上の考え、言葉である。ここからさらに掘り下げて考えることで、僕という人間の基本的な考えをとらえることができる。

初めに、感情を分類してみる。今回は時間に対するものが強く出ていた。次に退屈さに伴う感情である。暑さに関しては感情とはほぼ関係がないので省略する。

時間:「長い」「自分の時間を奪われた」「焦り」「退屈」
退屈:「イライラ」「ムカつき」

次に、言葉で考え文章にしてみる。

空いた時間を有効的(趣味など)に使えず、ただ待つことしかできない退屈の長さに焦り(イライラ、ムカつき)、自分の時間を奪われている感覚になった。

抽象度を上げ表現すると、自分の所有している時間や精神(やる気など)が他人によって支配されたり、他人のものになっていることを快く思わない。

具体的に言うと、
「遊んでいたおもちゃを他人にとられた」時や「自分が誰かの便利な杖になっている」と自覚したとき。

別の表現をすると、
僕は他人干渉されることが苦痛である。

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