優しさー屍の上にあるもの
"優しさ"について、当たり前だけれど決して忘れたくないことを書きたい。
人の優しさに触れた時、その人の過去を想像してみたくなる。特に後天的な優しさについて。
きっとその優しさに行き着くまでに、多くの失敗や涙があったのだと思う。人を傷つけて反省した経験、もしくは人に傷つけられてああはなるまいと決意した経験、殺伐とした世界で壊れそうになった自分の優しい心を必死に守ろうとした経験、色々あるだろう。経験の分、人にはそれぞれに重みある魂が宿る。
私が人に"ありがとう"という時、それはその人の優しさに感謝しているだけではなくて、その人が経験したであろうことに思いを馳せ、そんな貴方に幸あれという意味を含意しているつもりなんだ。
私が今幸せなのは人に恵まれているからだけれど、周りの人々が優しいのは、過去に犠牲になったものがあるからだ。
犠牲の上に、私の幸せがある。
幼い頃の気弱な私は、「私が幸せになるくらいなら、過去の小さなもの達が幸せであって欲しかった」なんて思っていた。
でも過去は変えられない。
与えられた幸せを最大限に享受しなければ、犠牲になったものが報われないと、今は思う。
これは自分から他者に送る優しさについても同じだ。私は優れた人間ではないので、意識しないと人に優しくできない。意識できるようになるまで、私は多くの人を傷つけてきた。心を痛ませた経験も少しはある。
だからこそ、今人に少しでも優しさを向けられなければ、過去の自分に顔向けできないと思う。同じ過ちを繰り返していたら、犠牲になったもの達に意味がなくなる。
本当に人に優しくあれているかなんて分からないけれど。あの日流した涙が、何かしら意味があるものだったんだと、いつか思いたいんだ。
屍の上にある優しさ。
優しさを大切にすることで、救えなかった屍にまで意味を及ぼすことができるように。
環境に感謝して、生きていきたい。