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『越えていく人——南米、日系の若者たちをたずねて』

 「移民」という言葉を聞いて、構えてしまう人は多いのではないだろうか。

日本生まれ日本育ちの私が、「移民」から連想するのは、難民だったり、昔読んだ井田真紀子の『小蓮(シャオリェン)の恋人』に出てくる残留孤児二世の話だったり。または、一緒に働いているベトナムからの留学生だったり。私は無意識に迎え入れる側の人間となり、社会問題として一歩引いた目線で「移民」を眺めていた。

もし私と同じような連想をした人がいれば、是非、本書を読んでほしい。また、人権や多様性について興味のある人にもおすすめである。教科書とは少し違った視点を得られるだろう。

日本人がほかの国に移民したという事実をそもそも知らない。そしてその事実を伝えても、肌感覚で理解してもらえない。えらそうな顔をして、日系移民の歴史を語ることはできないけれど、できればもうすこし興味を持ってもらえたらと心から思う。

ペルー生まれ日本育ちの著者が、ペルー、アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、パラグアイと、日系人1万人以上住むとされる国々を訪れる旅がはじまる。日系移民はどんな暮らしをしているのだろう。同時に、「肌感覚」で移民を理解してみたいという私の挑戦もはじまった。

著者は、日頃、戯作家、舞台演出家として活動している。自分の経験や体験を表現することを生業としているからか、常に自分を相対的に観察しているような筆致である。いろんな人と出会うなかで、質問内容や背景にある考えがどんどん変化していく様が面白い。

たとえば、「日本人」と「日系人」という言葉の揺れに集中する著者。「〇〇人」という括ることの意味に違和感を感じながらも、インタビューの相手が自分のアイデンティティをどう感じているのか、質問せずにはいられない。

しかし、著者のなかで徐々に「日本人」や「日系人」という枠がなくなっていく。ボリビアの街中で日本語を見た時に、驚いている自分に気づく。

これだけ日本国の外で日本語や日本食/文化と出会ってきたのにもかかわらず、いまだに日本という意味を日本国というと同じ領域、大きさでしか捉えることができない。そんな自分の了見の狭さに気づいてしまう。

変化するのは著者だけではない。日系人コミュニティも生き物のように変化している。日本文化を継承したいという気持ちと裏腹に、土着の文化と混じり合う。日本語がどんどん継承されなくなっている土地で日本文化が保存され、さらに独自の仕方で発展を遂げている。

著者が旅先で出会った若者たちは、自分を日本人と意識することは重要ではないようだ。私が印象的だったのは、ブラジル・サンパウロで出会った日系三世のヨシオさんの言葉。著者が将来について尋ねてみた。

「わからないですね。仕事次第。でも夢は、世界一周みたいな感じで、たとえばアメリカで三ヶ月働いて、その後カナダでまた三ヶ月働いて、いろんな国でちょっとずつ働きながら旅行してみたいですね。大学院終わったら、そういうことするつもりです。」

この変化を楽しむ姿に、私は共感したのだった。

私が「移民」としてレッテルを貼り、勝手にイメージを持ってきたことが、この共感によって薄れていく気がした。皆、日常生活を送るなかで、バックグラウンドは様々である。背景を尊重しつつ、でも自分と違うと決めつけず、個性のひとつとして受け入れる。私が「肌感覚」で理解したことは、レッテルを貼り続けている限り、人の個性が見えてこないということだった。

旅先でどんどん自分が変化していく様子が面白いシリーズ①。レビューはこちら

旅先でどんどん自分が変化していく様子が面白いシリーズ②。レビューはこちら。 


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