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女について ショーペンハウエル著

女の姿態を一瞥すれば、すぐさま、わかることだが、女は、精神的にも肉体的にも、大きな仕事をするのには、生まれつき、ふさわしくないのである。女は、人生の責任、いわば、負債を、行為によって償うのではなく、受苦によって、つまり、分娩の苦しみとか、子供の世話とか、夫に対する服従ー夫に対して、妻は、常に、辛抱強い快活な伴侶でなければならないーなどによって、償うのである。極度に激しい苦悩とか歓喜とか力わざなどは女性には向いていない。むしろ、その生活は、男性のそれよりも、静かで、平穏に過ごされなければならない。とはいえ、本質的に、より幸福だとか、また、より不幸だとか、いうわけではないのである。

わたしたちがごく幼い時分、わたしたちを育て、ものを教えこむのに、女が全く適役であるのは、女というものが、みずからも、子供っぽく愚かしくて、そのうえ、身近の物ごとだけを見ている、いわば、一生、大きな子供であり、要するに、子供と、真の人間である成年男子とのちょうど中間に位する段階に属するからである。まあ、一日じゅう、子供と一生になって遊んだり踊ったり歌ったりしている少女の様子をよく観てごらんなさい。そして、考えても見たまえ、一人前のれっきとした男が、その少女の代役をつとめることになったとしたら、どんなに好意を持って努力してみたところで、果たして、何が出来ることかを。

自然は少女に対して、たとえてみれば、芝居でいう場あたりをねらう考えで、何年かの間にかぎり、爾余の全歳月を犠牲にして、あふれんばかりの美と魅力と豊満さとを与え、特に、この何年かの間に、或る男の空想をしっかりととらえて、その女の一生の世話を、或る何らかの形で、誠実に引き受けるほど、夢中になるようにしむける。けだし、男性を動かして、このような段階まで立ち入らせるためには、単なる理性的熟慮だけでは、どうも充分に確実な保証となり得ないように思われるからであろう。このように、自然は、女性に、ちょうど他のすべての彼の創造物に対して与えるのと同じく、その生存を確実ならしめるのに必要な武器と道具とを、それが必要とされる期間だけ、与えておくのだが、この場合にも、実に、自然は、みずからの常套手段たるつましいやり方に従って、事柄を処理するのである。すなわち、雌の蟻が、交接の後には、もはや余計なもの、というよりも、産卵経過にとっては危険なものですらある翅を失うごとく、婦人たちもまた、たいてい一、二回、産褥に就いた後には、その美しさを喪失するが、おそらく、両者は同一の根拠にもとづくものであろう。

だからこそ、若い娘たちは、自分たちの家事向きや職業上の仕事などを、心の中では、余計なことと思ったり、ひどいのになると、単なる戯れごとくらいにしか考えておらず、専心に、まじめに打ちこむ勤めとしては、恋、男子の愛情をかち得ること、およびこれに関連する、たとえば化粧、ダンスなどがあるばかりなのだ。

およそ、或る物ごとは、それが高尚完全なものであればあるほど、より遅く、より緩慢に成熟に達するのである。男性にあっては、その理性と精神力とが、二十八歳以前に成熟の域にいたることは、ほとんど見られないのに、女性は早くも十八歳で成熟してしまう。とはいえ、女性の理性がすこぶる狭隘なることを免れないのも、そのせいである。従って、すべての女性は、一生涯子供の状態にとどまっており、見るところは常にただ最も手近なものに限られ、とかく現在に執着して事物の外観を問題にしたり、きわめて重要な事件よりもむしろ些細なことを好んだりするのだ。理性とは、すなわち、これがあるために、人間が、動物のごとく単に現在のみ生きることなく、過去と未来とを展望し熟慮するようになり、それによって、やがては、人間の先見、心配、またしばしば煩悶をさえ生ずる、そういうものなのである。これらのことがもたらす利益と不利とに、女性のあずかる程度は、その理性がより薄弱である結果として、男性に比べるとはるかに少なく、むしろ、女性は精神的近視である。すなわち、その直覚的悟性は近いところを鋭く見るけれども、その視野は狭く、そのなかには遠距離のものがはいってこない。従って、過去や未来の事柄と、すべて目の前に存在しない物ごととの作用は、女性に対し男性に対するよりも著しく弱く、こんなことから、確かに、女性において一層しばしば見受けられるーそのうえ、往々にして狂気に近いー濫費癖が起こってくるのだ。女たちは、心の中で、金儲けは男たちの職分であり、自分たちの役目は、それを費うこと、出来ることなら亭主の存命中に、また、やむを得なければ夫の死後に、なるべく早く蕩尽しなければならぬものと考えている。亭主がかせいだ金を家計のために女房に手渡すことが、すでに、女たちのかような信念を強めさせるのだ。ーこれら全てのことは、なるほど、それだけでも、きわめて多くの不利益をもたらすけれども、一方、良いところもある。由来、女性は男性に比べて、より多く現在に没頭するから、しのび得るかぎり、より楽しく現在を味わう、これが女性に特有の快活さを持たせるもととなる。実に、この快活さこそ、妻が、心労せる夫に休息を与え、必要ある場合には、これを慰藉するために適している所以である。

古代ゲルマン人たちの風習にならい、むずかしい事件に当たって、婦人にも相談するということは、一概に斥けるべきではない。というのは、婦人の物ごとを把握する方法が、男子のそれとは全く異なっており、ことに、女たちは目標への最も短い経路を好み、一般に、最も身近にあるものを眼中に置くので、男子が、とかく、そのようなものを、かえって、それが自分の鼻先にあるために見のがしてしまうといったような場合に、やはり、手近で簡単な見方を得るためには、婦人と相談することが役に立つからである。そのうえ、女たちは、断然、男子よりも冷静であり、従って、物ごとについても、現実に存在する以上に、あまり多くを見ないという長所を有つ。ところが、男たちは、みずから激情に駆られると、ややもすれば、存在するものを拡大して見たり、さらに、想像的なものをつけ加えたりしがちになるのだ。

不幸な人を見た場合、女性は、男性に比べて、より多くの関心をもち、より多くの同情と人間愛とを示すけれども、反対に、正義とか忠実とか確守とかいう点では、男性に劣るということも、同一の源泉から演繹すべき事柄である。つまり、女たちの理性が薄弱である結果として、現実のもの、直観的なもの、直接に実在するものなどは、女たちのうえに一種の強い力を押し及ぼすけれども、その反対の、抽象的な思想とか、一定の格率とか、堅く決心したこととか、ないしは、一般に過去や未来、不在の人や遠方の人に対する顧慮などのはたらきは、おおむね、微々たるものにすぎないからである。すなわち、女性は徳にいたる第一次的な、かつ主要なものをあってはいるが、これを展開させるのにきわめて必要な道具である、第二次的なものを欠いているのだ。この点で、女性は、肝臓を持ちながら胆嚢を備えていない生物に比べられるであろう。従って、女性の性格には、根本的欠陥として、「不正」ということが見出される。この欠陥は、まず、上述したように、理性的な判断や熟慮の乏しさに伴って生ずるのだが、そのうえに、おな、女性が、より弱いものとして、自然から力の変わりに奸計に頼るように指示されているために、それは、いよいよ大きなものとなるのである。だから女性の狡猾さは、本能的といってもよく、その嘘つきの傾向を全然なくしてしまうことは出来ない。けだし、自然は、獅子には爪と歯とを、象には長い牙を、猪には短い牙を、牛には角を、烏賊には水を濁らす墨汁を与えたように、女性に対しては、自己防衛のために、「いつわる力」を与えて、武装させたのだ。つまり、自然は、男性に体力ならびに理性として与えた力のすべてに匹敵するものを、女性には、このような天賦の形で、授けたものである。それゆえ、女性は生まれつきいつわるものであり、従って、賢女だろうが毒婦であろうが、いつわることにかけては、同じように巧みなのだ。思うに、女性が、あらゆる機会をとらえて、これを行使するのは、上記の動物が攻撃を受けた場合にすぐさま自分の武器を使用するのと同様に、ごく自然なことであり、しかも、そのとき、女性は、或る程度まで、自分の権利を行使するのだと感じているに違いない。というわけで、しんそこから誠実な、いつわりなき女は、おそらく、あり得まい、まさしく、それゆえに、女性は、他人のいつわりをやすやすと洞察する。それにつきまとう欠点とから、さらに、虚偽、不貞、裏切り・忘恩などということが生じてくる。法廷における偽証を、女は、男よりもはるかに度重ねて犯している。いったい、婦人の証言を認めるべきかどうかということがそもそも問題ではあるまいか。-何の不自由もない貴婦人が、商店で万引きする実例は、いたるところでしばしば繰り返されているのである。

若い、強壮な、美しい男性は、人類の繁殖のために力を尽くすように、自然から命ぜられているのである。こうして、種族は退化することを免れる。これは、自然の牢固たる意思であって、この意思の顕現が、すなわち、女性の情熱なのだ。この法則は、古いことでも、その力の強いことでも、他のあらゆる法則を凌駕する。それゆえ、みずからの権利と興味とを、この法則に逆らうものに置く人は、必ず、わざわいを受ける。その人が何を言おうと、また、何をなそうと、彼の権利と興味とは、最初の大切な機縁に際して、たちまち、容赦なく粉砕されるであろう。なぜなら、婦人のひそかな、言い表されない、というよりもむしろ自覚されていない、とはいえ、生まれつきの道徳は、「わたしたちは、個体であるわたしたちのためにわずかばかり尽くしてくれることによって、種族に対する権利を獲得したように思い誤っている人たちを、裏切る権利を有っているのです。種族の組成は、従って、その幸福も、わたしたちから生まれる次の世代を媒介として、わたしたちの手の中に置かれてあるのです。わたしたちは、それを、良心的に管理していきましょう」ということなのだから。しかし、女性は、その最高の原則を、けっして、抽象的に意識しているのではなく、単に具体的に意識しているばかりであり、だから、この原則に対して、機会の来たときに、みずから行動を採ることによって発表するほかには、何ら表現手段も有っていない。しかも、この行動を採る際に、両親は、女性に対して、たいていの場合、わたしたちの想像するよりも、はるかに平静であることを許すのだ。これは、思うに、女性は、その心を全くうかがい知ることの出来ない奥底において、個体に対する自分の義務をそこないながらも、種族に対する義務が一層よく果たされていたということ、それに、種族の権利は個体の権利よりも無限に大きいことを、自覚しているからである。-このことについては、わたしの主著『意思と表象としての世界』第二巻第四十四節で、さらに詳しく説明しておいたから、参照されたい。

究極において、女性は、全く、ただ種族の繁殖のために存在するものであり、女性の天分は、このことにあってのみ、展開するのであるから、どっちみち、女性は、個体としてよりも、種族としてより多く生きているのだし、女性の心の中では、種族に関する出来事のほうが、個人的な事件よりも、はるかにまじめに考えられる。これが、女性の存在ならびに行為のすべてに、或る軽薄さと、一般に、男性の方針とは根底から異なる方針とを与えるのだ。そして、このような軽薄さと、また、方針の違いなどから、結婚生活においてしばしば見受けられる、否ほとんど普通のことになっている不和が発生するのである。

男はもともと恋愛において気が変わりやすい傾向があるが、女は一般に気が変わらない。男の愛は想いを遂げた瞬間からはっきりと減退する。そうすると彼には他の女であればほとんど誰でもが、すでに今わがものにしている女より、ずーっと魅力的に見える。彼は変化を切望するからである。これに対して、女の愛はその瞬間から高まる。これは自然が種族を維持し、できるだけ強力にこれを増加させる事をめざしていることの結果である。つまり男は彼にそれ相当の数の女があてがわれるならば、一年に百人以上の子供でもつくることができる。ところが女は、いかに多くの男と交わっても一年に一人の子供しか産む事が出来ない。それゆえ男はつねに他の女に目を移すのである。これに反して女はほとんどただ一人の男に執着する。というのは自然は女が本能的にごくふつうに、生まれてくるこの養育者となり、保護者となる男をつかんで離さぬようしむけるからである。したがって夫婦間の貞節は男には人為的であり、女にとっては自然である。それゆえ女の姦通は、男性の姦通より遥かに許しがたい。

男性と男性の間には、おのずから、単に無関心があるに過ぎないけれども、女性と女性との間には、早くも生まれながらにして、敵意が存在する。だから、いわする商売敵の憎しみは、男たちでは、それぞれ彼らが属する同業組合にもとづくものに限られているが、女たちにあっては、その憎しみが全女性を包括している。これは、女性全体が、ただ一つの職業しか有っていないのによるのだ。女たちは、路で行きあった場合ですら、互いを分け隔てすることを、あたかも、グェルフ党とギベリン党との間柄にもひとしい。

なお、初対面の際、二人の女性は互いに、同じ場合に二人の男性が示すよりも、明らかに、より多くのわざとらしさや、いつわりの虚飾を表す。だから、二人の女性の間にかわされるお世辞は、男性の間のそれよりも、はるかに滑稽なものとなる。また、男性は、自分よりずっと目下の者に対してすら、常に、やはりある程度の遠慮と人情味とをもって話するけれども、高貴の婦人が、身分の低い(しかし、自分の召使ではない)女と話をするとき、一般に、いかにもいばった、そして、さげすむような態度をとるのは、はたで見ていても我慢がならないくらいである。これは、けだし、女性においては、階級の相違が、総じて、男性におけるよりも著しく不安定であり、はるかにすみやかに変化したり消失したりすることさえあり得るのによるらしい。というのは、男たちの運命には幾百もの事項が関係を有つのに反して、女性にあっては、ただ一つのこと ーすなわちいかなる男に気に入られたかということー のみで、その運命が決まるからである。更に女性の仕事が一方的であるために、女性同士は、男たちの間柄よりも、はるかに接近しているから、せめて、地位による差別だけでも、はっきりさせようと試みることが、またその理由となるのであろう。

背の低い、肩幅の狭い、臀の大きな、足の短い種族を、美しいものと呼びうるのは、ただ、性欲のために呆けている男たちの知性だけである。すなわち、女性の美は全く、男性の性欲衝動のうちに包まれているのだ。女性は、これを美しいものと呼ぶよりも、むしろ、非美学的なものと呼ぶほうが、ずっと正当だろう。音楽に対しても、詩作に対しても、さらに、造形美術に対しても、女たちは、事実上また本当に、感受性や理解を有ってはいない。もしも、そのようなもので女たちが感激したふりをするなら、それは女たちが他人に迎合するための単なる模倣に過ぎないのだ。

このことは、女たちには或る事物について純客観的な関心を有つ能力がないのによるのだが、わたしの考えるところでは、その根拠は、次のとおりである。男性は、すべての場合に、物ごとを、直接にー或いは理解すること或いは克服することによってー支配しようと努める。しかし、女性は、常にいたるところで、単に間接的にーすなわち男性を仲介者としてー支配するように定められている、ただし、妻は、ただ、夫だけを直接に支配することができるのだ。それゆえ、女性の天性のうちにあるのは、すべての事物を、ただ夫を得る手段とみなすことだけであり、従って、何かしら或る他の事物に対する女たちの関心は、常に、ただの仮装か単なる手管、すなわち、媚態やら模倣やらとなって現れるものに過ぎない。それで、ルソーも、すでに、言っている。「婦人は、一般に、いかなる芸術をも愛してはおらず、また、理解してもいないし、そのうえ、何らの天才も有っていない」と(『ダランベールへの書簡』第二十項)

こんなことは、ものの概観にとらわれない人ならだれしも、すでに気がついているであろう。演奏会、オペラ、劇場などで、女たちの注意を払う向きと具合とを観察するだけでも、わかる。たとえば、偉大な傑作の最も立派な場面の最中にも、女たちはおしゃべりをやめようとはしない、その子供らしい、無邪気さを見たら、よくわかるだろう。

問題は、個々の部分的な除外例によって、変更されはしない、全体について考えると、女たちは、最も徹底した、しかも最も度しがたい俗物であり、また、いつまでも俗物としてとどまる。だから、妻が夫の身分と称号とを共有するというきわめて不合理な社会機構において、妻は夫の卑しい名誉欲に不断の刺激を与える。そのうえ、女たちがこのような特質をそなえているために、女たちの采配を振ったり音頭をとったりすることが、現代社会の腐敗を醸すのである。女たちの社会的地位に関しては、ナポレオン一世の「婦人に階級なし」という言葉を、よく考えてみるべきであり、その他の点について、シャンフォールが「女性は、われわれの弱点と痴愚とに関係するために造られてあるが、われわれの理性に関係するようには造られていない。女性と男性との間には、ただ、表面的な共感が存在するだけで、精神・霊魂・性格などについての教官は、ごくわずかばかりに過ぎない」といっているのは、全く当たっている。

女たちは、いわゆる「セクス・セクイオール」〔価値の劣る性、アプレイウス『メタモルフォーセス』第七巻第八章〕で、どの点から見ても、男性の後ろに立つ第二級の性である。それゆえ、男性は女性の弱さをいたわってやらねばならぬ、とはいえ、女性に対して尊敬を払うのは、度はずれに滑稽なことであるし、そんなことをすると、女性みずからが男性を見くだすようになってしまう。自然が人類を二つに分けたとき、これを真二つに等分したのではなかった。すべて両極に分かれているものにおいて、陽極と陰極との相違は、単に質的のみならず、同時に量的なものがある。-古代ギリシア・ローマの人々および東洋の諸民族は、まさしく、そのような女性観を有っていたから、従って、彼らは、女たちに適当する地位を、わたしたち現代のヨーロッパ人よりもはるかに正当に認識していたのである。これにひきかえ、わたしたちは、このキリスト教=ゲルマン的愚昧の最上の精華である古代フランス風の慇懃と、ばかげきった女人崇拝とを持っているのだ。しかも、このことは、ただ、往々にして、ベナレス〔インドのヒンドゥ教の聖都〕における神聖な猿どもを想起させるほどに、女たちを横柄かつ無遠慮にするのに役立っているばかりである。それらの猿どもは、自分たちが神聖視され、かつ殺生禁断になっているのを知って、自分たちの欲することはすべてことごとくが許容されるものと考えているのだ-

西ヨーロッパ諸国の婦人、ことに、いわゆる「淑女」(「独」ダーメ「英」レディ)は、不当な地位を占めている。なぜなら、古代人から適切にも「セクス・セクイオール」と呼ばれた婦人は、どのみち、男性の畏敬と崇拝との対象たるに適していないし、男性よりも高く頭をもたげたり、男性と同等の権利を有つには、ふさわしくないからである。この不当な地位に置かれた結果は、てきめんに現れている。だから、ヨーロッパでも、人類の第二号たる夫人には、やはり、それ相応の地位を指定し、また、ただにアジア人全体から笑われるばかりでなく、ギリシア人やローマ人にも同じように笑っただろうと創造される「淑女」というあらずもがなのものにも、結果をつけることが、ぜひとも願わしいのである。その結果、社交的・公民的ならびに政治的な関係において、具合のよくなることは、それこそ、はかり知れないほどであろう。そうなると、サリー族の法典は、余計な自明の理として、全く不必要なものになってしまうに違いない。

ヨーロッパにおける真の「淑女」は、全く存在すべからざるものであるが、主婦および主婦になることを望む少女は存在せねばならぬ。従って、少女は横柄にならぬよう、そして、家事と服従とに向くように教育されなければならない。ヨーロッパに、いわゆる「淑女」がいるからこそ、身分の低い女たちーすなわち助成の大多数を占めるものーが、東洋におけるよりも、はるかに不幸な目にあっているのだ、バイロン卿ですら言っているではないか(トーマス・ムーア編『書簡および日記』第二巻第三九九ページ)。「古代ギリシア人の間における婦人たちの状態を考えてみるとー全く的を得たものであった。騎士および封建時代の野蛮な遺風たる現今の状態はー人工的であり不自然でもある。女たちは家事に心を配らなければならないーそして、よい食物をとり、よい衣服をまとう必要はある。しかし、社交のうちにまじらなくともよかろう。なお、宗教については、充分に教育されなければならない。-けれども詩や政治の書を読む必要はなくーただ、信心のことや料理に関する本を読んでおれば、よいのだ。音楽をしたり、絵を描い、ダンスをしたりー時には、少しばかり庭いじりや畑仕事などをやるのも、よかろう。わたしは、エピルス〔ギリシアの西部、アルバニアとの国境にまたがる地方〕において、女たちが道路の修繕をやり立派な成功を収めているのを見たことがある。それゆえ、枯れ草を作ったり乳を絞ったりするのと同様に、このような仕事を、女たちにやらせてはならぬという理由が、果たしてあるであろうか?」と。

一夫一婦制が布かれている、わたしたちのヨーロッパ地区において、『結婚する』ということは、男性が自己の権利を半減し、かつ、自己の義務を倍化するという意味になる。考えてみると、法律が女性に男性と同等の権利を与えたときに、当然、法律は、また、女性に対して、男性の有っているような理性をも与えなければならなかったのであろう。ところで、法律が女性に対して承認する権利と名誉とが、女性の自然的な関係を、より多く超えて高められれば高められるほど、実際に、この特典にあずかるようになる女性の数は、それだけますます減っていく。そして、法律は、これら少数者に、その度を超えて与えたのと同僚の自然的な権利を、それ以外のすべての女たちから奪いとるのだ。なぜなら、一夫一婦制の機構と、それに付随する婚姻法とが、何ら斟酌するところなく、一般的に、女生徒男性とを全く同等の価値あるものと認めてしまい、これにもとづいて、女性に賦与されたー反自然的な、しかも女だけに利益のあるー地位は、聡明にして注意深い男性をして、かように大きな犠牲を払って、しかも、かように不平等な契約を結ぶことを、はなはだしばしば躊躇逡巡せしめるからである。それゆえ、一夫多妻制の諸民族にあってはすべての婦人が扶養されているのに、一夫一婦制の民族においては、結婚している婦人の数は、ほんのわずかばかりに限られ、扶養者を有たぬ婦人が、無数に、取り残されていて、その上流社会に属するものは、無用の老嬢として坐食しているが、下層社会にあるものは、不適当な重労働を課されるか、さもなければ、売春婦となるのだ。これらの売春婦たちは、全く喜びもなく名誉もない生活を送っているとはいえ、このような状況のもとでは、男性を満足させるために必要にして欠くことのできないものであるし、それゆえにこそ、すでに夫をもっている、或いは夫をもつ希望を抱くことを赦されているー幸運に恵まれたー女性を、男性の誘惑に対して保護するという特殊な目的を有つ、一つの公認された階級として、現れてきたのである。ロンドンだけでもこの種の婦人は、八万人のお起きにのぼるという。これらの婦人は、一夫一婦制の機構によって、最も恐ろしい不幸に落とされたものにほかならず、実際、これらの婦人こそ、一夫一婦制の祭壇に捧げられた人身御供でなくて何であろうか? このような極度に悪い境遇に陥らせられた女たちすべては、虚飾と尊大とをかねそなえたヨーロッパの「淑女」に対する避けがたい埋め合わせ勘定である。だから、女性を全体として見るならば、一夫多妻制のほうが、実際には幸福をもたらすことになる。他の麺からいっても、夫は、その妻を慢性病にかかっているとか、いつまでも子を産まないとか、或いは、だんだんと彼の妻として老いぼれていく場合に、第二の妻を迎えてはならぬということは、理性的に看過するわけにはいかない。モルモン宗が、あのように多数の帰依者を獲得したのは、まさしく、反自然的な一夫一婦制の撤廃によるものらしい。そのうえ、女に不自然な権利を与えたことは、ひいては、これに不自然な義務を負わせることとなって、この義務にそむくことが、反対に、女たちを不幸にしているのだ。たいていの男は、地位や財産に対する顧慮から、結婚をー何らかの輝かしい条件が附帯しない場合にはー不得策なことと思うであろう。そこで、男は、みずからの選択によって、女とやがて生まれる子供たちとの運命を確保するために、結婚以外の条件のもとで、女を得ようと望むようになる。ところが、この条件は、男にとって、たとえ、そのように公正かつ理性的であり、また、事態に適合しているとしても、女としては、結婚によってのみ与えられる不相応な権利を放擲することになるし、やはり、結婚は市民的社会の基底をなすものであるのだから、この条件に同意するならば、その結果、或る程度まで自分の名誉を失い、悲しい日陰の生活を送らねばならぬことになる。というのも、所詮は、人間の天性が、他人の意志のうえに、それに対し全くふさわしからぬ価値を置くというならわしを有っているからである。しかるに、女が、そのような条件に同意しないときには、やむなく自分の気にいらない男と結婚するか、それとも、老嬢として味気ない一生を過ごすか、いずれかの危険にさらされる、何と言っても、女性の結婚適齢期は、はなはだしく短いのだから。ヨーロッパにおける一夫一妻制の機構の、このような面に関する著書として、トーマジウスの『妾をかかえることについて』は、よく根本的な研究を遂げたものであり、読む価値を充分にそなえている。すなわち、この書によって、人は、次の事柄を悟るであろう。

「妾をかかえることは、すべての教養ある民族にあって、また、ルーテル宗教改革にいたるまでは、あらゆる時代において、許されていた、というよりむしろ、ある程度まで法律的にさえ是認されていた制度で、いかなる不名誉も伴っていなかったのに、この制度が、このような段階から突き落とされたのは、ひとえに、ルーテルの宗教改革のためであり、しかも、この宗教改革は、この制度を撤廃することを踏み台として、むしろ、僧侶の妻帯を義証しようとする一つの手がかりに、目をつけて行なわれたのである。ことここにいたっては、カトリック側でも、もちろん、この点について、おくれをとるわけにはいかなかった」-

 一夫多妻制の是非に関しては、議論する必要などは全くない、これは、いたるところに存在する事実として、考えるべきである。ただ、問題は、これをいかに調整するかというにとどまる。いったい、真の一夫一婦主義者は、どこにいるのか? わたしたちは、すべて、少なくとも或る期間において、たいていは、しかも、常に、一夫多妻の生活をしているのだ。従って、男にはそれぞれ、多くの女が必要なのだから、多くの女を世話するのは、男の自由であり、むしろ、義務であるというのが、何よりも当然な話である。そうなると、女も、従属的存在者として、その正当かつ自然的な立場に戻れるし、ヨーロッパ文明とキリスト教=ゲルマン的愚鈍の化け物であり滑稽にも尊敬と崇拝とを要求する「淑女」は、この世界から姿を消して、ただ、あたりまえの女たちがいることとなる。そのうえ、今、ヨーロッパに充満している不幸な女は、もはや、一人もいなくなる。-モルモン宗の連中は、正しいのだ。

ヒンドスタン(インド中央平原地方)では、あらゆる場合に、婦人の独立は認められていない。マヌ法典第五章一四八節に従って、婦人はだれでも、父か夫か兄弟または息子の監督を受けている。寡婦が亡夫の屍とともに自焚するのは、もちろん、厭うべきことではあるが、夫が子供たちのためにとみずから慰めながら、一年の間、休む暇なく働いて獲得した財産を、夫の死後、寡婦がその情夫たちとともに蕩尽するのも、やはり、忌むべきことではないか。「幸福な人々は、中庸を保つ」-

始源的な母性愛は、動物におけると同様に、人間にあっても、純粋に本能的なものであり、従って、子供たちを肉体的に援助する必要がなくなるとともに、消失する。それから後は、始源的な母性愛に代わって、週刊と理性とにもとづく母の愛が現れなければならぬはずであるが、往々にして、ことに、母が父を愛していなかった場合には、それが現れてこない。父のその子供に対する愛は、母の愛とは種類の異なるもので、それよりもはるかに持久的であり、子供たちのうちに、自分に特有の最も深い自我を再認識することにもとづく、つまり、形而上学的な起源を有つ。-

男たちが、長い間の勤労と大いなる辛苦をかさねて、やっと築き上げた財産も、女どもの手に渡ると、その無知のために、またたく間に蕩尽されたり、また、それほどではなくとも、濫費されるのは、全く見るにたえないーしかも、ざらに見られるーことである。こんな事態は、女子の相続権を制限することによって、予防されなければならない。それには、女子に、寡婦と娘とを問わず、男系の後継者が皆無でないかぎり、不動産や資本を相続させることなく、原則として、ただ、一生涯の間、抵当権の上で保証される利子のみ相続させるのが、最良の制度というものであろうと、わたしには思われる。そうなると、財産の取得者は、男子であって、女子ではなく、従って、女子には、財産を管理する資格が与えられないと同時に、これを制約なしに所有する権利も認められず、女子は、けっして、相続した財産そのもの、すなわち資本金・土地・建物などを、自由に処分してはならない、つまり、つねに、後見人を必要とする、従って、当然、寡婦は、いかなる場合にも、その子供たちの後見役となってはならないということにもなる。

女たちの虚栄心は、たとえ、それが男たちの虚栄心より大きくない場合でも、全く物質的な事物、すなわち、自分を美しく飾ることとか、ついでは、浮華・贅沢、壮麗といった面に熱中する悪癖があり、従って、女たちの最も好むところは、まさしく、社交ということである。この虚栄心は、特に、その理性の貧弱なためでもあるが、女たちを浪費に傾かせる。だから、古代人は、早くも「女たちは、たいてい、生まれながらにして、むだづかいをする」と言っている。(エス・ブルンク著『ギリシア詩の格言集』第百十五節)。これに反して、男たちの虚栄心は、おおむね、非物質的な長所ーたとえば、悟性とか教育とか勇気などのようなことーに向けられる。ーアリストテレスは、この『政治学』第二巻第九節で、スパルタでは、女たちが遺産を相続したり持参金を携える権利を有ち、そのほかにも広範囲にわたって束縛されずにいたほど、女に対して、あまりにも多くの自由が許されていたので、そのことから、スパルタの男たちにとって、どれほど重大な不利益が発生し成長したか、また、そのことが、スパルタの没落に、どれほど深い関係を有っていたかということを、詳しく説明している。-フランスにおいても、ルイ十三世以来、絶えず増大してきた婦人の勢力が、宮廷と政府とを徐々に腐敗せしめ、ひいては、第一革命を惹き起こし、その結果、かずかずの政変が続発したことについて、責を負うべきではあるまいか?いずれにしても、ヨーロッパに淑女というものが存在するということにつけて、その最も鮮明な証徴を現している女性の誤った地位は、社会状態の根本的な欠陥であり、この欠陥は、その中心から、すべての部分へと、その不利益な影響をおし及ぼすにちがいない。

女が、その天性から従順であるように定められているということは、そのひとりびとりが、完全な独立という、女の天性にとって自然にそむくような地位におかれている場合に、間もなく、その地位を誘導し、かつ支配してもらえるような一人の男に結びつくということによって、はっきりと認められる。何といっても、女には主人が必要なのである。その際、女が若ければ、主人は、すなわち、愛人であり、年老いているならば、それが懺悔聴聞僧ということになる。

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