運命の輪 第3章 第2話

第2話 崩壊の足音

1. 何も知らずに帰宅する

「それでさ、俺が『もう勘弁してくれ』って言ったら、美咲が大笑いしてさ——」

浩介は上機嫌だった。

会社帰り、美咲と会って飲んできたのだ。軽く冗談を交わし、キスをして別れた後、ふわふわとした気分のまま帰宅する。

玄関を開けると、家の中は静かだった。

「……？」

違和感を覚えながらも美咲との余韻に頬を緩めながらリビングに入る。


みどりが静かに座っていた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

いつもと変わらないみどり。何だ勘違いか？

「ちょっと話があるの」

「ん？」

スマホをいじりながら気のない返事をする。

「あなた、不倫してるわよね」

その瞬間、背筋が凍った。

「……は？」

「何を言ってるんだ？」

「とぼけないで。証拠ならあるのよ」

みどりは淡々とテーブルの上に書類を並べた。

浩介は、その紙に目を落とす。

——そこには、見覚えのある写真があった。

ホテルに入る自分と紗枝
カフェで見つめ合う二人
腕を絡めて仲良く歩く二人

——お腹が大きくなった紗枝と自分の写真。

浩介の血の気が引いた。

「……ち、違うんだ、これはただの——」

「ただの、何？」

みどりの声は冷ややかだった。

「今日で終わりにしましょう。離婚よ」

——離婚？

その言葉が頭にうまく入ってこなかった。

「ちょっと待ってよ、……確かに…ちょっとした気の迷いだった。でも、お前とは別れるつもりなんてないんだ。だから——」

「慰謝料を請求するわ」

「……は？」

「あなたにも、紗枝さんにも。しっかりと払ってもらう」

「ま、待って！ こんなことでいきなり——」

「こんなこと？」

みどりの視線が突き刺さる。

「結婚しているのに他の女を抱いて、子どもまで作っておいて、それを“こんなこと”で済ませようとするの？」

「……っ」

「私はもう、あなたを許すつもりはない」

浩介は言葉を詰まらせた。

「……待ってくれ、話し合おう」

「話し合いなら、弁護士を通してやるわ」

浩介は、体が震えるのを感じた。

——もう逃げられない。

2. 保身のための計算

離婚の話が進む中で、浩介の頭の中にあったのは自分の立場をどう守るかだけだった。

——会社にバレたら昇進の道は絶たれる。
——慰謝料はいくらになる？
——養育費？ 毎月どれくらい払うことになる？
——紗枝とはどうする？

「……まだ会社には言ってないよな？」

浩介が恐る恐る尋ねると、みどりは冷ややかに微笑んだ。

「言うわけないでしょう？ 会社の信用が落ちたら、養育費を満足に払えなくなるもの」

その言葉に、浩介はゾッとした。

——どこまで計算してるんだ、こいつは。

「それと、あなたのご両親には私から伝えておくわね」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ！ それだけは……！」

「ダメよ。あなたがしたことなんだから、ちゃんと説明するべきよね？」

浩介は頭を抱えた。

逃げ道が、ない。


3. 紗枝との絶望

浩介は震える手で紗枝に電話をかけた。

「……紗枝」

『浩介？ どうしたの？』

「バレた」

一瞬の沈黙。

そして、崩れるような声が聞こえた。

『え……』

「全部、証拠が揃ってた。慰謝料を請求される」

『……そんな……』

紗枝の声が震える。

『嘘……やだ……』

「……すまん」

『やだ、やだよ浩介…どうしたらいいの…』

浩介は、頭を抱えた。

「俺も分からない……でも、もう、どうしようもない」

電話の向こうで、紗枝の嗚咽が聞こえる。

『どうしよう……私、もう後戻りできないのに……』

浩介は、初めて実感した。

——俺たちは、もう元の場所には戻れない。

4. 逃げるように新しい生活へ

慰謝料は、浩介と紗枝の2人それぞれで支払った。

養育費も、毎月払い続けることになった。

そして半年後、浩介と紗枝はようやく籍を入れた。

——これで、すべて終わったはずだった。

しかし、会社での信用は地に落ちていた。

「……あの高羽ってさ、不倫して離婚したんだろ？」

「しかも相手妊娠させたって……最悪じゃん」

廊下でひそひそと囁かれる声。

上司の態度も冷たくなり、昇進の話は消えた。

後輩からの信頼も失い、会社に居づらくなった。

それでも、生活のために辞めるわけにはいかなかった。

——これが、俺の選んだ道なのか？

夜、帰宅すると、紗枝が疲れきった顔で1人座っていた。

「おかえり」

ぎこちない笑顔。

かつては愛おしく思えたその表情も、今はどこか重く感じる。

——こんなはずじゃなかった。

浩介は、冷めた食事に手を伸ばしながら、何度もそう思った。