JAZZに出会ってNYに行ったら価値観ぶっ壊れた話②
地方都市の定期券発売員で19歳だったわたしが、ジャズに出会ってお金を貯めて23歳でNY留学したら父が末期癌だとわかって3ヶ月で戻ってきた話です。詳しくは①を読んでみてね。
別人のように痩せていた父
無邪気ないたずらっ子のような笑顔の父が全く知らないおじいちゃんに見えた。ビールっぱらで、痩せ型とは言えない父が本当に骨と皮のようになっている。謎に髭も伸ばして顔が四角いムツゴロウさんみたいじゃん。
しかも車椅子に乗ってる。痛々しい。転移しまくってもう最終ステージ。
お医者さんから父の病状を説明してもらった。
「これが肝臓ですね。」
え、なにこれ、草間彌生、、、?あのカボチャ並に水玉がある。
「この水玉模様みたいなの、ぜんぶ癌なんですか?」
「そうですね。お父様の場合、胃と大腸の間に最初の癌ができてそこから広がっていったと考えられます。最終的には骨にも転移するでしょう。年齢的に進行が遅いのが普通なんですが、お父様の場合、細胞分裂が早くて転移するのも早かったんです。」
うわー絶対これすぐ亡くなるやつやん。
1年前には最初の癌が出来てたはずだと。思いおこせば、その頃から疲れやすい。しんどいんだ。と言っては、よく寝てたな。
血管年齢を調べたって言ってたのも、調子が悪いから血液検査しにいってたのか!血管年齢わかすぎて転移はやまっとるやんか。なんてこった。
渡米する前も、どうしても最後にご飯を一緒に食べたいってお願いしたのに。混み合う空港がしんどかったのか、父が帰ると言い出して、母と急に帰ってしまった事を思い出した。
目の前の父は、もう覚えてる父と全く違う姿で声も弱々しい。
それでも話して笑って、最後にとんでもないことを言ってきた。
あのビルあるだろ?あそこのテナント家賃まだ払ってくれてないんだよな。
高橋さん(仮名)て不動産屋さんに頼んでるから、ちょっと代わりにやってほしい。
ん?母ではなくme? Why?
母は薬剤師でガッツリ理系脳なのでお話が上手くないんですよ。
や、わかるよ。わかるけど、私やんの?仕方なく不動産屋さんに電話した。
「催告書かいてもらえませんか?」
いきなり何だそれ。
話を聞くと大家さんが書く必要があるので、不動産屋さんは書いてくれないと。内容は見るのでともかく書いて欲しいと。
家にインターネットもなく(わたしが渡米した時に解約した。)ネットが使える場所に行って調べて見よう見まねで書いてみた。
大家さんて大変なんだな。テナントが出る=家賃収入が減る。
(持ち出しでローン支払うから、母の給料から支払うのか。。。。)
話をきいみてると、もう退去したいから、敷金の戻し分として家賃と相殺してほしいというテナントさんの要望だったらしい。父に連絡がつかないから、勝手にもう出ることを決めて払わないことを決めたそうな。
テナントが入っているビルは、父がバブル崩壊直前にアホみたいな金額を母の名前でローンを組んで買ったビル。購入後にバブル崩壊、家賃の踏み倒しにあったり、私道に囲まれているため改装工事も一苦労。おまけに旧消防法の時に建てられたものなので、半地下、地上4階というなんともいびつなビルだった。父は、そのビルを売却して、わたしの学費に充てようとしてくれていた。。。。ありがたいけど、その役割は全部わたしに頼みたいと。
戻ってきて早々、学校の宿題をやりながら病院にも行き、不動産屋とのやりとりもし、ご飯も作る。怒涛のライフを送ることとなる。
父に会いに行くのが段々辛くなってくる
人でなしに思われるかもしれないが、毎日行くのはもうしんどすぎて無理だった。病院が少し遠いので、地下鉄で行くのが億劫だった。
何より毎日行っても話す事がない。弱っている父にジャンプを届けるくらいだ。モルヒネが効いて朦朧としていたり。時にはおむつ替えを目撃する事もあった。行くたびに死にゆく父を見ても何もできないし、それでも「わたしが来ると嬉しいらしい。」という看護婦さんの話がプレッシャーになっていた。「毎日行かなきゃダメなんだけど、行きたくない。」と思っていた。
余命1ヶ月と言われてから、1ヶ月半は経っていた。
最後の日は突然に
明らかに弱っていくのはわかったけど、いつなのか分からない。
もう余命を1か月はすぎた。変わり映えのしない日々だが、真冬に車もなく病院に毎日行くのはつらい。もうそろそろなのか?いつなんだろう。
突然、病院から電話が入る。急変したと。母も職場から駆けつけた。
急いで病室に行くと、もう人ではなくなってしまったような父の姿があった。会話もできない。なんだか臭う。内臓から腐っているのかと思うようななんとも言えない生臭いにおいがした。
獣のように痛さに任せて雄叫びを上げる姿に、もう父はここにいないんやな。と感じた。早く解放してほしいと思った。
一旦は落ち着いたようで、看護婦さんから、おそらく今晩は大丈夫かと思いますが、いつどうなるか分からないので泊まりの用意をしてきてください。
母とわたしは割とドライなので、とりあえず一旦帰ります!泊まりしたことないから何がいるん?などと呑気に話しながら、地下鉄駅まで歩いていた。
「申し訳ありません、急変したので戻ってきてください!」
看護婦さんから、電話が入る。父はどうやら寂しかったのか、私たちがいなくなった後、急に亡くなってしまったらしい。看護婦さんは責任を感じて、泣いて謝ってくれたが、逆に申し訳なく思ってしまった。
母とわたしは、お父さん拗ねちゃったんだね。と言って、すぐ葬儀屋さんと親戚に連絡し、ご飯を買って、長い夜に備えた。
まじ寝れないのね、葬儀前って!
夜になくなって、すぐ葬儀屋さんがきて。夜中に早速、お通夜と葬儀のプラン。要するにお金の話をされる。「一家の大黒柱であるお父様のご葬儀ですので〜」を枕詞に、少しでも見栄えのいい高いプランを進めてくる葬儀屋。
一方でこっちはお金なんかない!消耗品に出すお金は可能な限り低くしたいのである。女2人だし、つけ入られてはなるまい。
そして、うちの一家の大黒柱は紛れもなく母なのである。(超重要)
母はもう放心状態で判断がつかない様子だったので、わたしが全部決めて行った。葬儀屋さんの提案を秒で断って、一番安いものですみませんが、お願いしますと言い切って振り切っていたのだ。
今思うとそこまでする必要なかったかもしれないが。入院費・ビルのローン、費用はかさむし余裕はないので消えるものにかけるお金はなかったのである。
家に帰って速攻、遺影用の写真をあさる。中々いいのがない。酒を持っている写真しかない!どうしよう。もうこれインド行った時の謎の衣装着てるやつでいいか!(みなさま、遺影は先に決めておいた方がいいです。)
うちの父は、インドの謎衣装を着た遺影です。
お通夜、葬儀と年の瀬にバタバタとやり終えて。ホッとしたのも束の間。
準確定申告しなきゃだめねーと母と話していて、過去の申告書を見たら。
ん?なんだ、あれ?家賃収入のってなくない?
え、、、、過去の申告書に全部入ってないやん!!!!!
母の方でやると税金高くなるから父の方でやる、と決めていたのに。
父、申告してない。。。。。!
初七日前に脱税していたことを知る。
「まじなんなのあの父親!!!」叫んだ年明け、三が日。
23歳から26歳にかけて、ひたすら父の後片付けをして過ごすことになったのです。(白目)
無理だわこれほんと無理。と思ったことばかりでしたが。
絶対にわたしは3年で、NYに戻ると心に決め、宣言をし、3年で父のアレコレを片付けて。母には申し訳ないけど、ビル売却分のお金はください。と、お願いして2010年、ニューヨーク市立大学シティカレッジ校に戻ったのです。
なんで、3年後にNYに戻ることができたの?
自分のやりたいことを諦めた理由を家族のせいにしたくなかった。→3年間ずっと2010年にはNYに戻ると言い続けていました。
やって後悔する方が、やらずに後悔するより絶対いいに決まっている。→脱税・不動産の売却その他もろもろの問題は、とにかく人に言う相談しまくる。セカンドオピニオンを取って比較することを徹底!
この2点を貫いたからです。
親戚や知り合いから、やめた方がいいんじゃない?と言われることも多かったけど。たったの3ヶ月行っただけじゃ、絶対後悔するし。家族を責める気持ちを持ってしまう。
そんな自分絶対に嫌!この気持ちが勝りました。
さあ、そんな26歳のわたしが、NYにやっと戻った!
でも前と違う。戻ったはいいけどNYも大変なんだが?引っ越し8回、学部の変更、5年半にもわたるNYでの生活で何があったか、、、③へ続く!