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乳がん術後温泉ガールズトーク「魔女になる日 さよならおっぱい」31

乳がん疑いから5か月、よく耐えた心と体

勤務先の大学は公式には12月26日が仕事納め。
しかし、年始早々に卒業制作の審査会があるため納まるはずはなく、27、28、29日と卒業制作の下読みが続いた。
それでは年越しはできないから、大掃除、買い出し、煮物作りなどを並行した。

7月末に乳がんの疑い、8月末に乳がん確定、10月末の手術入院までの複数回の検査、乳がんについての取材調査、セカンドオピニオン、転院、医師の提案する手術方針への合意、入院手術。この5か月は目まぐるしく過ぎた。
早期発見をしていただいた最初のP病院、エビデンスをもとに適切に説明をしていただき、不安なく手術を迎えさせていただいた、転院先のKM中央病院の乳腺専門医のN先生の縁と運に恵まれて過ごした5か月だった。

乳がんが発覚して、2024年度の後半は、勤務先の本務校の大学業務、別の大学の非常勤講師の授業、某新聞にひと月に一度連載している「詩壇」の原稿以外の仕事をキャンセルした。

空いた時間は何をしたか。
ひたすら眠った。夜8時間眠っても眠い。
勤務先から帰宅すると、まずは30分から1時間の仮眠をとり、それから仕事を再開した。

非浸潤性乳管ガン、転移と浸潤なし。右乳房全摘出で治療完了。
たとえ右乳房を喪ったとしても、ガン患者のなかでは「運がよい」としか言いようがない。
私は、サバイバーギルトを感じさえしていた。

「ガン患者卒業ということでいいですか」
術後病理検査の結果を聴いたあと、私が訊ねると、
「それでも、怪我人だからね」
と、主治医のN先生は言った。

私は「交通事故のあとの大怪我人」には違いなかった。
心身が睡眠と休息を欲していた。
大学祭の期間の10日間だけ代休を取って入院手術をし、術後の痛みを感じながら職場復帰をし、高校生の子どもの親業、保護者業もしたのだ。私の体と心は、よく耐えたのだと思う。

地蔵谷の湯治場

真言宗 醍醐派 不動院が運営する「不動温泉」 @地蔵谷

12月30日、京都から滋賀に向かう山中越えの地蔵谷にある真言宗の寺院が運営する「不動温泉」に行った。

よく耐える私の心身は、毎年年末と年度末には、大変疲弊している。
ノンストップで業務が入ったり、トラブルに見舞われると、限界になる。
こうした生活は、作品を書いたり、研究をしたり、本を編集する、本来の本業にダメージを与え、自分の為すべき仕事をせずに、望まれた労働だけで切り刻まれた人生の残り時間を意識させた。

今年は、ガンと手術に耐えて働き続けたのだから、いつもよりケアが必要なはずだった。
術後ひと月の12月から術後の体のケアを徐々にはじめ、24日に鍼灸院、30日は温泉である。

温泉には、ひとつハードルがある。
私の右乳房の術後痕を見た人は、これまで医師、看護師、連れ合い、術前術後を撮影しつづけてくれている写真家の高橋保世さん、同じく乳がんサバイバーの友子さんだけだった。
事情を知らない人が、私の術後痕をいきなり見たら、はっとするだろう。

そのようなわけで、私は術後の入浴衣を準備して営業開始の10時に出向いた。
私は、不動温泉の女将の姐さんに、事前に伝えることにした。
「先にお話しておきますね。私、あれから乳がんになって手術で右の胸がなくなったんです。温泉で入浴衣を着ますね」
私がそう言うと、女将は、
「そういう人おるね。ここは湯治場だからね。いいよ、いいよ」
と、さっぱりとした気質のまま、必要なことだけを言う。

私が準備したのは、写真のような入浴衣である。

畿央大学が開発した日本初・乳がん術後女性のための入浴着「BATHTIME TOPS」
ウェブサイトによるが、500円で購入できる。https://x.gd/Goxxx

畿央大学が開発した日本初・乳がん術後女性のための入浴着「BATHTIME TOPS」がグッドデザイン賞受賞 - 大学ジャーナルオンライン

これを試す機会でもあった。
(私の勤務先は芸大なのだから、乳がん患者の悩みにデザインで寄り添ったらよいのに、と思う。女性の教員が主体にならない限り難しいのだが)

白くにごったラジウム温泉は、洗い場が4つ、5人入ればいっぱいになるような小さな温泉である。
ウィークデーの代休の午前中に行くと、ひとりかふたりになる。
12月30日の年末でも、営業時間と同時に来たので私ひとりだった。

私は、女湯の脱衣場で隅を確保し、服を脱ぎ、不織布の軽い入浴衣をまとった。

大丈夫だ。
以前と同じように、温泉に入ることができる。
私は洗い場で、以前と同じように体を洗った。
不織布の入浴衣を脱いで体を洗おうとしたとき、人が入ってきたので止めた。
私は不織布の下に手を入れて体を洗い、シャワーを浴びて湯舟に入る。

「さと子さん?」
私は、そこに我が家のお向かいに住む、ママ友の妹さんを発見し、声をあげた。彼女は、今の私の勤務先に以前勤めていた教員である。

「ああ! 年末の恒例なのよ、ここに来るの」
そう言うさと子さんと私は向き合って湯舟に入った。
すると、さと子さんの大学の同級生だという女性も、湯舟に入ってきた。

「いいなあ、地元にお友達いるの」
私は、心からそう思って言った。
私は今日、案外勇気を出して術後温泉にチャレンジをしている。
連れ合いは男風呂に入るわけだから、私はひとりだ。

さと子さんは、私の入浴衣のことに触れず、私が誰であるか(「彼女の甥っ子の同級生のママで、芸大の先生をしていること」)を友人に伝えた。

私たちは、互いの近況を聴き合った。
さと子さんは、大学の任期が切れたあと、保育事業・障がい福祉事業を運営する社会福祉法人で、アートのワークショップ講師をしているのだという。
それは、就労移行支援につながるワークショップでもあった。

以前、私の勤務先の大学にいた彼女は、ここがハードワークであることを知っていたから、そのことを案じつつも、今はどのような仕事をしているのか聞いてくれた。

「文芸作品を書く学生たちに、編集者として向き合っている。小説やノンフィクションや評論。時々編集者になりたいという学生もいるけれど、編集の演習授業は担当していないの。でも、それは半分くらいで、あとの半分の仕事は、学生の悩みを聴いたり、就職の世話をしている」
「そうそう、子どもの世話や」
さと子さんは、そう言って笑った。

それは決して否定的な意味ではなく、右往左往しながら生きる「子ども」、自分たちの時代とは異なる成熟段階にある昨今の若い方たちの脆弱性に向き合い、支えざるを得ない覚悟を経験した人の言葉だった。

「障がい学生の支援」「合理的な配慮」「支援内容の合意形成」というのは、現場を知らない役所言葉だ。
実際のところ、発達障害、精神疾患、グレーゾーンの学生は、合意形成されたスポット的ケアではなく、日常的な声かけ、コーチング、話を聴くなどのケアがあって、初めて学修の場に参加することができた。
社会に出る勇気がでるのも、こうした積み重ねが4年、5年あってこそだ。

そうでなくとも、思春期、青年期は危機に陥りやすい。
スポット的に「これは支援する」「これは支援内容ではない」と合意形成したとしても、日常的な人間関係をもとにした信頼関係を形成し、学生たちの日々の不安の受け止めをしなければ、繊細な学生はすぐに孤立し、糸の切れた凧のようになり、大学に来られなくなってしまう。
苦しんでいる人、脆弱性や疾患を抱えた人に必要なのは、全人的な関わりだった。

さと子さんと話していて思ったのは、ガン患者も同様であるということだった。
「臓器としてではなく、人間としてお付き合いくだされば」
P病院からKM中央病院のN先生に転院するときに、私は先生にそう言った。
患者は、乳房という臓器ではなく、私という人間だった。
私は、発達障害、精神疾患の学生に向き合っているのではなく、ひとりの〇〇さんという人間と、その人の歴史と痛み、喜び、闘いから生み出される作品と、その人が生きていく未来に向き合っていた。

「これ着ているのはね、10月末に乳がんの手術をしてね、右の胸がないの。今日、初めてこれを着て温泉来たの」
私が入浴衣を指して言うと、さと子さんとお友達は、初めて私の胸のあたりに視線を落とした。
見てはいけないもの、触れてはいけないことではなく、同性として話をすること。それが私の自然な心の動きだった。

それから私は。彼女たちの質問に応じて、ガンが分かったときの経緯、転院したこと、大学祭期間に10日だけ休んで入院手術をして復帰していることなどを話した。

「乳がん検診しなくては、って思ったでしょう?」
そういうと、私より2学年年下の彼女たちは、神妙な顔をして頷いた。
「でもね、昨年も検診していたんだけどね。そのときは何ともなかったの」
私がそういうと、
「半年でガンが育つというからね」
さと子さんはそう言って頷いた。

私は、ストレスで心身限界になっていた昨年度の後半のことを思い出した。
心あたりはある。
再びガンにならないように、働き方、人との関わり方を見直し、自分を大切にする方向にシフトしなければならない。

「今の職場は、もう最後の職場になるかな。あとはゆっくりするの」
さと子さんがそう言うので、私は、
「私はもつかな。いずれにせよ、任期が終わっても働くと思う」
そう言って笑った。
「経験や資格がたくさんあるから、純さんは。評価して大事にしてくれるところあるでしょう」
「どうかな」
私は、頭数の労働力として搾取されることや、数値評価の「調整」人事にさらされるのではなく、人間性と専門性を高め合い、志と困難を分かち、リスペクトしあいながら働く環境や仕事を求めていた。若い時から他者のために働き続けたのだから、もう自分のすべき仕事に集中したい。無駄にされる時間は残ってはいない。

私はのぼせそうになって、先に湯舟を出た。
洗い場で髪を洗い、そっと入浴衣を脱いで体を洗った。
再び湯舟に入ると、さと子さんとお友達は先に風呂場を出て、脱衣所に行ってしまった。

私ははじめての入浴衣で「風呂に浸かったガールズトーク」を思いもかけず体験し、心強く温泉入浴を再開することができた。
東京にいるときは、友人たちと温泉に出かけた。
京都にいる私に必要なのは、信頼できる成熟した友人たちとの余白の時間だった。

公衆浴場というのは、人を無防備に正直にする。
裸には、その人が生きてきた歴史、関わってきた仕事が刻まれている。
その人がどのように生きてきたのか、樹齢のような肉体と声が語る。

私の体も、きっとそのようであるはずだった。
私の術後痕の傷は、樹齢のような記憶の跡地だった。
傷も皺も、半世紀以上生きた私の歴史だ。
私はこの体で生きていく。

乾杯

アルコールが飲めないため、ノンアルコールビールが定番

風呂からあがると、ちょうど隣の席で、さと子さんとお友達が顔にシートパックをしていた。

「これをするとしないとでは、お肌が違うねん」
さと子さんはそう言って、私にシートパックを勧めてくれた。
「いいの? ありがとう」
私はさと子さんのシートパックで、ほてった顔を包んだ。
「『犬神家の一族』のスケキヨみたいでしょう」
私がそういうと、向かいの席で連れ合いが笑った。

さと子さんとお友達は、毛布を持ってきて、パックをしたまま横になって眠ってしまった。今日は5回は入浴をするのだという。

私は連れ合いとささやかな乾杯と食事をして、12時には不動温泉を去った。
1月にニュージーランドに短期留学してしまう、息子の食事の準備がしたかったのだ。
連れ合いとさと子さんは、私が風呂場にいる間、それぞれの高齢の親のことや、子どもたちのことなどを話したそうだ。

地域住民としての私たちは、こうして、自分や家族の病、困難について、言葉を交わしていく。
そのことは、とても大切なことに思えた。






















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