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がんを抱えて働き続けるということ「魔女になる日 さよならおっぱい」15

がんが判明したら、職場、同僚たちにどのように伝えたらよいのか。
〈事実は率直に、ヘルプは明確に、発信は明るく〉

8月27日、P病院で乳がんの診断がくだされた私は、診療室を出て学科長にLINEをして、夕刻にzoomでお話をしたいと連絡をした。
そして、9月4日の学科会議のあと、同僚の教職員に、乳がんについてストーリー仕立てでプレゼンテーションをした。
「がん」と聴いて、オンラインの向こうで一瞬顔が固まった同僚たちは、「女性の9人にひとりがなる乳がんだから、詳しくなっておくから」とプレゼンテーションをはじめ、乳がんの取材調査を始めてしまったという私に、笑い始めた。こうして私の乳がん闘病は、社会化することになった。

 
*この連載は、時系列を崩しながら、オンタイム・ノンフィクションとして今書けるところから書いていこうと思います。いずれ編集して時系列を入れ替える予定です。

 8月27日 P病院で乳がんが確定した日

 
 8月27日、乳がんであるという診断を受けた。
午前10時51分。診療室を出たP病院の待合で、私は勤務先の大学の学科長のY先生にLINEで連絡をした。
「Y先生、こちらから失礼します。精密検査で、初期乳癌が今朝明らかになり、9月10日午前中入院、11日切除、17日退院の段取りになりました。後期授業を優先した進行になりますが、附属高校の授業と入試がNGになると思います。今P病院で、これからまだ検査なのですが、午後お話できますか?」
 
9月は入試、附属高校の詩の授業、後半には後期授業がスタートする。
9月から2年生の学生たちがゼミを新しく履修する。3年生は10月の作品展の準備、4年生の卒業制作の提出も9月だった。
授業は100分×14回、もしくは100分×2コマ×7回。休講回は必ず補講を実施する。学生たちは3分の1以上欠席すれば単位認定の条件を満たさない。
私が授業期間に、この条件を満たす授業ができないようならば、学生の学修に不利益が生じる。学科長はすぐに非常勤の先生を探すなど、大変な調整をしなくてはならなくなる。

9月最終週の授業開始まで、ひと月もなかった。今からそんなことができるわけがない。今年度に導入された新カリキュラムと前年度入学までの旧カリキュラムで、教職員たちは昨年度から引き続きノンストップの日々を送っていた。学科長はなおさらだ。私も長患いはできない。

私は一年契約更新の教員でもあった。
「休職すればいいのに」という友人や学生がいたが、休職制度は私の雇用契約書に明記されていない。総務に問い合わせると、代休と有休を使ってください、と日数を知らせてくれた。正規雇用でないということはそういうことだ。むしろ私が、無期雇用の先生をサポートする立場なのだろう。
かつての職場の編集者の女性の同僚たち、教員の同僚たちは、産休育休後、仕事を続けられなくなり、フリーランスや非常勤になる割合の方が高かった。契約社員の場合は、産休すら認められない。
(法律があるということと、本人と現場が対応できる状態かどうかは別のことだ)

妻が乳がんを経験したY学科長

いずれにせよ、1週間なり10日なりの入院手術の期間をがんや手術のことを言わずに代休で済ますのは、無理なことだ。職業人、プロフェッショナルとしては、率直にありのままをお伝えするのがもっとも誠実なことである。
その日、Y先生は17時に時間を取ってくれた。Zoomで私たちは話をした。Y先生の妻が乳がんを経験されていたことも、私が話をするハードルを低くしてくれたと思う。
私の雇用はともかく、誰かが仕事ができなくなる可能性のある期間は、組織で事前調整をしなくてはならない。
そのことは、大学卒業後の32年間の職業人生で苦しいほどにわかっていた。編集者も教員も、すぐに代替のきかない仕事だった。妊娠出産のときも、私は臨月まで働き、育休明けも時短はなく、朝7時半に出勤して17時半に退勤し、乳児の眠ったあと22時に起き出し、持ち帰り仕事をしていた。

申し訳ないけれど、授業開始期間に間に合うように、入試と附属高校の授業期間、9月10日に入院、9月11日に手術、以後5日ほど入院をさせてください、と私はY先生にお願いした。
すると、Y先生は、学科のほかの教員に代わっていただく調整をしてくださるという。8月は、ほかの先生方も夏休みもない状態で、学生たちのゼミ選択面談をしていた。そして、私たちは大学業務だけが仕事なのではなく、それぞれ研究制作や執筆、家族を抱えて働いているのだった。

私は、Y先生の妻が乳がんでどのように治療されたのかということを少しうかがった。(乳房を)全摘出されたこと、ホルモン治療をされたこと、体調には波があるということ。

「神頼みしちゃったから」
 Y先生はそう言った。
「え、Y先生ってそういう人?」

放送作家、コント作家のY先生の普段のイメージとは異なる言葉に、私は驚いた。がんは、本人よりも家族を不安にさせることもあるのかもしれない。
Y先生は、「まだ子ザル」のようなママ大好きな子どもたちが、荒れてしまったことも話してくれた。

「お母さんは元気でないといけないですからね」
私はそう返事をした。
私は少なくとも、表面的には元気で明るくいなくてはならない。息子に対しても、学生に対しても。不安は感受性の強い若い人たちや子どもたちに伝播することを、私はよく知っていた。
家族、クラス、ゼミやサークルの仲間、恋人、教員、アルバイト先。
子どもや若い人たちの周囲にある環境、人間関係が、彼らを育んでいる。
親しい友人が自傷行為をすれば影響を受ける。友人と同じ病院に行き、同じ薬を飲む。
反対に、周囲の同世代が創作や進路のことに真剣に向き合い実績を出せば、それに影響され自分たちも頑張ることができる。
若い人たちのいる小さく閉塞的なコミュニティーでは、良くも悪くも、ひとりの行動が互いに影響を与え合う。
そういう意味で、ゼミやクラスの運営は、生ものだった。私はいつも慎重に気を遣って授業運営をし、学生たちの変化を感じ取り、声をかけていた。
大人の職場も同様である。私は、ほかの先生方にも影響を与えるだろう。
しっかりしていなければならない。

附属高校の授業の代講は、Y先生がすぐに別の先生に調整してくださり、私は9月4日の次の学科会議で、教職員の方たちに自分の言葉で状況を説明することを約束した。

その日、Y先生とオンライン1on1を終えて、私はいつものように夕食の準備をした。今朝、診療室で一緒にがん確定の説明を受けた連れ合いは、その後大阪の会社まで出社していた。息子にはまだ話をするのは早い。

闘病、手術の準備

私は、がんの告知を受けたその日、Y先生と仕事の段取りをつけたあと、やっと、自分のための準備を始めた。その日、インターネットで注文したものは以下の通りである。

・『医学のあゆみ 乳癌のすべて 2024』医歯薬出版
・前アキの術後ブラ3点。
・前アキのネイビーの作務衣(これはパジャマ替わり)。

乳房の手術をすれば、しばらく前アキの服や下着しか身に着けられなくなる。それまで使っていたブラジャーは術後は適さなくなる。
私はその夏使っていたブラジャーをクローゼットから取り出し、棄てた。


9月4日 学科会議で乳がんについてプレゼンテーション

ということで、8月27日のがん確定の日のY先生との面談では、9月11日に手術をする段取りだった。しかし、私は、その日から取材調査を開始し、セカンドオピニオンを取り始めた。この連載の14回「セカンドオピニオンで転院」にあるように、私は転院を検討し始めた。
以下は、9月4日の学科会議終了後、学科教職員限定への報告・連絡・相談としてプレゼンテーションした内容の資料である。(一部改変)

                 
私が827(火)に乳癌と診断され、附属高校授業と入試期間に切除予定の件
(本来この1行で終わる予定でしたが「ストーリー」に変化がありました)

〈起〉発端
・経緯:7月末に初診、8月、エコーやMRI,CT,組織検査を経て、8月27日(火)に、P病院の外科医に「非浸潤性乳癌」と診断された。
・行動:9月の授業開始前までに何とかしなくてはと思い、9月10日入院、9月11日切除、9月17日退院、という段取りと入院予約をすぐした。叔母が53で乳癌、55歳で亡くなっているので、全摘出の心づもり。
・業務対応:8月27日にすぐY先生に報告相談し、調整していただいた。
(10日の附属高校の授業をE先生、13日~15日の入試をJ先生)

〈承〉ところが!
・診断の「結論」を聞いて、「部分切除+放射線治療」、もしくは「全摘+放射線治療なし」を私自身が決定しなくてはならなかった。日本乳癌学会の『乳癌診療ガイドライン』、国立がん研究センターの『乳がんの本』ほか、医師用、患者用の専門書を7冊入手、2024年最新の診断ガイドライン、治療方法等を調べる。非浸潤癌は〈ステージ0〉ではないか。転移の可能性は低いと書いてある。 

はて
P病院の医師は外科だが、乳腺専門医ではない。切る実績多数の「名医」。しかし、切除後の放射線治療、ホルモン療法、(乳房の)再建手術や方法は、P病院ではできず、大学病院に紹介される。
つまり、P病院の診療では、〈起〉「切る」の導入のみ。その後のストーリー(治療方針)がない。しかし、切除後の治療方針が決まっていなければ、部分切除も全摘も患者は決められない(全摘してすっきりしてしまおう、は乱暴であった)。

〈転〉そこで
乳癌20年サバイバーの京都の友人、東京のもと同僚、東日本大震災原発事後後の子ども集団検診プロジェクトを共にしている医師や、友人の女性弁護士に医療情報を取材しはじめた。いくつか「待った」がかかり、KM中央病院の乳腺外科長を紹介してくださる方がいて、診療相談を8月30日に設定。

あれ? 
KM病院 乳腺専門医の話:非浸潤癌は転移しないから、一部切除、部分切除をして、術中の病理検査で予後の治療方針を決めることもできる。全摘出もあり。予後のライフプラン、治療方針、再建有無や方法も含めて、丁寧なディシジョンメイキングが必要。遺伝子検査をしてからにしては?

ということで
正式なセカンドオピニオンのために資料を取り寄せて、9月6日(金)に、KM病院の乳腺外科長に1時間の時間をとっていただくことになった(ガイダンス、14時15分に抜けます)。
今朝、これまでの検査資料をP病院からもらった。病理検査の数値と照らすと、診断は間違ってはいないと思われるが……。医学部の教科書に照らして読み合わせ、自分で病理診断している。非浸潤性乳癌にもさらに細かな分類があるではないか!←今ココ。

〈結〉
相談:現時点での入院切除の判断は、6日の面談以降にします。
P病院の入院手術を直前でキャンセルする可能性あり。
その場合、附属高校の授業、入試を担当できるかもしれません。
さすがにがん告知から1週間で全摘出の決断、切除入院1週間で仕事復帰の計画は私自身に乱暴すぎました。

以上が学科教職員にお伝えした資料と概要である。
当初Zoom画面の向こうで、私の乳がん報告に顔が固まっていた同僚たち。
「今、女性の9人にひとりが乳がんになります。詳しくなっておくから」
そう言いながら実施した、ストーリー仕立てのプレゼンテーションが終わる と、Y学科長は「大変わかりやすい」と笑った。同僚たちは苦笑いをしていた。

Y学科長は、私がP病院の入院手術をキャンセルしたとしても、
「今回は附属高校の授業と入試は非番でいいですよ、N先生。いいですよね、E先生、J先生」
と言ってくださった。
終わりの見えない猛暑で疲れ切っているだろうに、E先生とJ先生は、
「やりますよ」とおっしゃってくださる。

学生たちに、私のがんについて伝えるかどうかについて、話題になった。
「授業に穴を開けないのなら、伝えなくてもよいかな」
と私が言うと、
Y学科長は、
「いや、僕の妻の乳がんのときも、学生たちには言ったんですよ。学生たち、色々調べてくれて。話した方がいいのではないかな」
と言う。
私は少し思案したが、
「担当の学生たち、授業や学科から公式に伝えられたことは、個別督促されなくとも、自己管理してできるようになってほしい。がんだと言えば、少しは私に遠慮して、自立するようになるでしょう。うちの息子も自分でお弁当詰めるようになりましたし。学生たちに、病を抱えても働く姿を見せたいとも思います。話してみます」
と言って笑った。大人に依存できないと思えば、若い人たちはしっかり自立していくものだった。

こうして私の乳がん闘病は、社会化することになった。
今回のプレゼンテーションで実感したことは、事実は率直に、ヘルプは明確に明るく発信した方がよいということだ。





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