術前検査がはじまる(1)「魔女になる日 さよならおっぱい」18
20年前、叔母は55歳で乳がんで亡くなった。―叔母と同じ悪性新生物に同じ年齢で食い尽くされる前に正体を確認せよー。私は、自分がり患してしまった非浸潤性乳管がんが、遺伝性乳がん卵巣がん症候群なら、アンジェリーナ・ジョリーのように、両胸と卵巣の切除をする決断も厭わない覚悟だった。
*この連載は、時系列を崩しながら、オンタイム・ノンフィクションとして今書けるところから書いていこうと思います。いずれ編集して時系列を入れ替える予定です。
術前検査がはじまる
連載15で書いたように、9月6日にKM中央病院に正式に転院し、乳がん手術の段取りが組まれた。この間、一日も大学の勤務を休むことなく、授業を外すこともしない。すべては日常のなかに組み込まれている。
9月11日 遺伝子検査のための採血
9月30日 乳腺の検査と遺伝子検査の結果報告、タモキシフェンの副作用がないか確認
10月16日 術前検査
10月23日 麻酔科外来
9月11日、懸念だった遺伝子検査のために血液検査を実施した。
叔母が乳がんで亡くなっているため保険適用、かかった費用は3割負担で61,140円。検体はアメリカのmyriad genetics社に送られ、検査を受ける。
KM中央病院に11時に行き、中央処理室で血液検査を実施。
遺伝性乳がん卵巣がんのことを知りたい方のために、同社の日本企業のリンクを埋め込んでおく。正しく知りたい!遺伝性乳がん卵巣がん
9月30日、夜診療でKM中央病院を訪れる。
診療室に入ると、N先生が、
「はい、遺伝子検査の結果は陰性」
と、myriad genetics社の解析結果書をくださった。
私は安堵した。これまで、N先生が遺伝性乳がんについて説明してくださったことを振り返る。
(連載14)
「部分切除で(乳房を)遺すと、一般の方が残っている乳房が乳がんになる確率はだいたい10%なのですが、遺伝子の変化がある場合は、17%~25%、倍ぐらいの確率」
「遺伝子の変化がない方でも1割ぐらいは再発があるので、再発のリスクを下げるために放射性治療があるわけですね。ところが、どうしても遺伝子の変化がある方の場合は、同じ乳房にまた乳癌ができる確率が、だいたい倍ぐ らいと意識していただいていいです。そのことを考えて全摘を選ばれる方もあります」
(連載15)
セカンドオピニオンで訪れた際、N先生は、
「(転院前のP病院のMRI,CT,エコー)それらの画像を見ながら乳がんの正体を一緒に確認して、説明してくださった。非浸潤がんであるようだが、P病院で指摘された2センチ部分だけではなく、その背景組織の乳腺にがんに育っていそうに見える部分があるので、右乳房の3分の1くらいはしっかり見た方がよい」
話の流れの中で、私は「遺伝性でなかったとしても、全摘出の方がよいということですね」と確認をしている。
N先生は、それに応えて「全摘出の方がわかりよい」とおっしゃった。
遺伝性乳がんでなかったとしても、部分切除だと再発リスクが10%、
P病院では2センチのみ、えぐるような部分切除でよいと言われていたが、
N先生が、画像を見ると、その背景組織の乳腺に「がんが育っていそうに見える」。右乳房の3分の1はしっかり見る、全摘出の方が判断としてはベターであるということだった。
その日、遺伝性検査が陰性だったことで、両胸と卵巣切除という判断の検討の余地はなくなったが、N先生と右乳房の全摘出を決定した。
N先生は、手術の方針について、絵を描きながら説明をしてくださった。
・画像では非浸潤がんと診断されていても、実際に手術をすると20%は浸潤がんであるデータがある(日本乳癌学会「患者さんのための乳がん診療ガイドライン)。
・術後に摘出組織の病理検査をすること、そのことで浸潤がないか、癌の広がりの状態やタイプが明らかになり、術後の治療方針が決定される。
・センチネルリンパ節生検でリンパ節に転移がないか、術中に病理検査をする。
N先生の診断と治療方針は、慎重なエビデンス主義だった。
ひとつひとつ事実を検証して、可能性を消していく。
乳房の部分切除か全摘出かを決定しなければならないときに、私が必要としていたのは、まさにこうした根拠に基づいた方針だった。
そのために本を読み、調査取材をし、セカンドオピニオンを求めていたのである。N先生の説明にはあいまいな部分がなく、明確だった。
タモキシフェンの副作用もなし
血液検査で、タモキシフェンの副作用も確認されなかった。万事順調だ。
順調に検査は進み、私の乳房は切り落とされる。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、私にはわからない。
「臓器としてではなく、人間として向き合う」
私は、前回N先生のところにうかがったときに、私の著書を3冊お渡ししていた。私が今回の体験をオンタイム・ノンフィクションか私乳癌小説として記録すること、撮影も入ること、どのような仕事をしてきた者か了解していただいた方が、書かれる方も安心されるだろうという思いもある。
「臓器としてではなく、人間として向き合ってほしい」
という私の言葉にひるまず、あたたかく向き合ってくださったN先生は、
「思いもかけず、好きな世界に出会えた。ますますいい仕事してください」
とおっしゃってくれた。
私の詩集の帯文は今年ご逝去された新川和江さんで、エッセイ集には私自身のことも書かれていた。
「妻は在日なんですよ。僕は琉球人と京丹後人のハーフ。子どもたちはクォーター」
先生はそうおっしゃる。
在日コリアンの私の祖父が癌で亡くなった1970年代前半は、社会保険が適用外だった。
1952年のサンフランシコ平和条約で、「日本人」から「外国人」となった「在日」は、無国籍、無権利状態を生きることになる。
特別永住外国人に社会保険が適用されるようになったのは、1979年の国際人権規約批准、1981年の難民条約批准以降である。
母たち三姉妹、祖母が家の金をすべて持ち込んでも、自費で祖父の癌の治療は続けられない。
お金が尽きて、東京都心の有名な病院から祖父は退院させられた。
心労が重なっていた長女の叔母も有名な病院で亡くなった。
一番下の乳癌で亡くなった叔母も有名な病院で治療を受けた。手術の順番を早くするために、30万円を準備してほしいと従妹に言ったのだという。
持たざる者に、医療は平等ではない。
私が「無産者医療」「無差別平等」というKM病院の理念、その母体となる全国民医連の綱領に感動するのは、そのことがあるからである。
「保険証があっても、その当時のがん治療では、十分なことはできなかったかもしれないけれど」
N先生は、私の話を聴いて呟いた。
社会や労働のなかに人は生きていて、環境が人の健康や病や暴力に影響する。
東京の下町で、きっと体を使って働いてきたであろう、背中のひどく曲った高齢者を見ると、今も胸がぐっとくるのは、そのためだ。
私は、そんな街から、荒川と隅田川を渡り、資本家や中産階級のお嬢さんが行くような都心の中学、高校、大学に進学した。
体と心を潰して働いた人たちに養ってもらった。生活と労働は闘いだった。その人たちを蔑ずむ人たちもいることを私は知っている。
しかし、その人たちの中にある暴力や女性差別を、私は愛せなかった。
「お前、舟に載せてもらったんだろ」
在日の著名ゆえに宿命のように闘うオンニに、浅草の喫茶店で言われた言葉だ。
大人になってからは、東京の西側や都心、横浜、京都の郊外に住んだ。
私の声は、そこでは体のなかに押し込められたままだ。
KM中央病院は京都の西の方にある。
そこは京都西部の工業地帯の面影が残っていた。私には懐かしい光景だ。
駅から不便な道のりを歩きながら、私は、私の声に近づいていく。