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乳がん右胸全摘出手術日「魔女になる日 さよならおっぱい」21

*この連載は、時系列を崩しながら、オンタイム・ノンフィクションとして今書けるところから書いていこうと思います。いずれ編集して時系列を入れ替える予定です。

10月28日(月)手術日 


連載11で書いたように、10月28日(月)の朝9時に医師のN先生、看護師のAさんが病室に迎えにきてくださり、病室を出発して手術室に向かった。

手術室に出発。楽しそうに堂々と歩いている。 写真 ©高橋保世

トップ写真は、手術で切除する右側の乳房の印である。
外科手術は、眼科で霰粒腫、整形外科で手の小指を経験したことがあるが、いずれも部分麻酔だった。今回はさすがにそれとは違う。右乳房を全摘するという、乳がんの大手術である。
それなのに、手術の前に病室と廊下で、写真家の高橋さんに撮影してもらった私、N先生、看護師のAさんは、いずれも楽しそうに笑っている。

連れ合いだけが少し緊張気味に、裏方のように背後に控えている。
がんや手術は、一般的には家族も当事者になると思うのだが、他者の不安や痛みはわかりえないと考える連れ合いの独特の距離感なのかもしれなかった。連れ合いはいつも「あなたの選択を尊重する」と言う。

この日は、私が手術室で不在になった個室の病室で、私のベッドで昼寝をしているつもりだったのだという(やはりのん気である)。
いずれにせよ、「怖がる妻を励まし、背中を押し、支える夫」という、ジェンダーステレオタイプは存在しない。
私はいつも自分で決定し、前を堂々と歩いてしまう。

どんどん進み、やっと後ろに人がきたころには、もう次のところに行ってしまう。
彼は、私が次のところに行ってしまったらついてくるつもりなのだろうか。
編集者や教員、子育てという、人を待つ仕事で、私は相当な忍耐力が鍛えられた。
しかし、自分のこととなると決断が早い。

私たちは、何を選択できるのか


選択ということは、難しいことだ。
選択肢をまず調べなくてはならない。
そしてたいていの場合、それほど多くの選択肢はない。あるいは選択肢がありすぎる。ひとたび選択したのなら、どれだけ苦しくても辛くとも、すべて自己責任に帰されてしまう。
私たちは90年代から2000年代にデフォルトになりつつあった「自己責任時代」に社会に出て、過酷な状況を働いて生き抜いてきた。

私と同世代の女性たちは男性の扶養に入るのではなく、共働きで「対等に」「自立して」、家計、住宅ローン、保育料等の経済を担うことがデフォルトとなった。しかし、家事、育児を「対等に」「自立して」、男性たちは担っただろうか。
妊娠出産で仕事が続けられなくなるのも「自己責任」で、その結果、前職とはかけはなれた給与の再就職で、非正規雇用となり、キャリアパスを喪失するのも「自己責任」だ。
原発事故から乳幼児を守るための母子避難、離職も、自主避難、自己責任だった。

治療方針を選択するのも、患者自身である。
それが「自己責任」なら、そんな選択は尊重されたくなかった。

だから、私たちバブル崩壊後の氷河期世代は、結婚をせず、子どもを産めなかった。
さらにその子どもの世代の学生たちは、自己責任論と支援とケアの間を揺れながら、選択の重さに苦しんでいる。
就職活動、自立住居、奨学金返済、結婚、子どもを持つ選択を重たいと考える背景には、この自己責任論があるだろう。
これらの自己責任を担えるだけの強さと忍耐力、覚悟、経済力がなければ、親元から自立して、仕事と生活と子育てをするという「団塊世代には普通の生活」もできないから、子どもの立場から卒業して、成熟した大人になることが今はとても難しい。

当初、P病院で乳がんの診断を受けた私は、世代の自己責任論を背景に、自分で必死に乳房の部分切除か、全摘出か、選択するための情報を調べていた。
しかし、KM病院、N先生は「自己責任論の選択責任」を私に背負わせることはなかった。丁寧に状況を説明し、提案し、共に考えてくださったように思う。私が今回、入院手術をプレッシャーに思わなかったのは、そのような配慮、人への想像力、思いやりがあったからだろう。

魔女になって帰還

手術室で麻酔が体に投入され、意識を失った3時間後、女性たちの声が複数で私を呼んでくれた記憶がある。麻酔科医や看護師の女性たちだろう。
呼ばれて、私はこちら側に戻ってきた。魔女になって。

麻酔が覚めて2時間後 自撮

次の記憶で、私は病室にいる。
N先生がタッパーに入った、切除した私の右乳房を見せてくれた記憶である。いや、乳房ですらない黄色い脂肪の塊。中央に乳頭が載っていた。

手術当日は、点滴、尿道カテーテル、切除後の傷から浸潤する血液とリンパ液を抜くドレーン、心電図、4つの管につながれて身動きができず、ベッドの上で仰向けのままだった。

その日、連れ合いは17時ごろまで病室にいた。
彼は、私のベッドサイドではなく、私の足元の先、壁際に腰かけていた。
手術中、私が不在となった病室ベッドで寝て待つつもりが、ベッドを手術室に持っていかれたため、眠れなかった、というような軽い苦情を聞いたように記憶している。
その後、何を話したのかは覚えていない。
ひとつだけ、不思議なことがあった。

ベッドから2メートル以上離れた右サイドに、洗面台があった。
蛇口の下に手を入れるとセンサーで水が流れる洗面台である。
私と連れ合いが話をしていると、ふいに水が流れ出した。

ふたりで不思議に思ったのだが、水はまた自然に止まった。
光の加減だろうか。
連れ合いと私は、同じところに留まり、洗面台の近くには誰もいなかった。

私は、乳がんで亡くなった叔母が、術中、術後、私の傍にいてくれたような気がした。もちろん、これは非科学的な空想に過ぎない。
私は乳がんになってから、ずっと叔母のことを考えていた。
がんだと診断されてから、不安だと誰かに伝えたり、弱音を吐いたり、泣いたりすることはなかったというのに、私は心の中で、叔母に助けを求めていたのだろう。

もう少し、ここにいさせて。
私は、自分の子どもと洋子さんの子のまいちゃん、あなたの孫たちのことを、きっと見守るから。

ドレーン以外の管が取れて、自分でトイレに行かれるようになったとき、私は、連れ合いが座っていたあたりで、幾度も動いて光や影をつくってみた。
水栓の近くまで行って、周囲で動いてもみた。
水が勝手に水栓から流れ出すことは、二度となかった。

たびたび病室を訪れてくださる医師、看護師の方たち


大学病院を舞台にしたドラマでは、「院長回診」「執刀医回診」は、大変めずらしくたいそうなことに描かれている。
KM中央病院では、術後、毎日3回もN先生が病室を訪れてくださった。

N先生は、毎回、術後の傷痕を見て、化膿や感染がないか、出血の程度はどうかを確認されていたのだと思う。多分、それだけではない。
乳房を喪い、傷痕を見てショックを受けないか、私が本当はどう思っているのか、様子を気にかけてくださっていたように思う。

看護師の方たちは、点滴、尿道カテーテルや心電図の具合、血圧、傷痕を確認してくださった。お若い方たちが多いのに、その手際はいつもてきぱきとしていて、声かけも的確で思いやりがある。

ベテランの看護師の女性たちや理学療法士の女性は、さりげない会話で、私の気持ちを引き出そうとしてくださっているようにも見えた。
同世代の女性たちとのあたたかな世間話は、普段の京都の生活や仕事の中で不足していることだったから、楽しかったのである。

手術日の月曜日、N先生は夕方17時からの外来診療だった。
外来診療の前に病室を訪れてくださったときは、
「ガリバーのように張りつけになっていなくていいよ」
とおっしゃる。

私は、パラマウントベッドごと体を起こし、PCを開いてこの連載の原稿を書き始めた。
その日の夜から夕食が出て、完食した。
術後、体力も食欲も上々だ。

看護師の方が病室にいらした夜9時半ごろ、退勤前のN先生が再び病室を訪れた。私は、先生がまだ病院にいらしたこと、夜の診療は随分遅くまでされていることを知り驚いた。
「先生、ブラック企業ですね」
そんなお声かけをしたように思う。

学校の教員は、丁寧で誤りのない向き合い方をしようと思うほどに、長時間労働になる。医師も同様なのだろう。
以後、先生は私が退院する次の土曜日まで7日間連続で、病室にいらしてくださった。


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