乳がんとシスターフッド(2)京都の女性たちの助け舟「魔女になる日 さよならおっぱい」17
P病院で8月27日に乳がんを診断されてから、私は乳がんについての専門書を読み、乳がんの経験者を探し、連載13のキッチンHの「少年の胸のともこさん」の紹介で、セカンド・オピニオンを求めPM病院に転院するに至った。
私は2011年、東日本大震災原発事故後の東京から、3歳の息子と京都にやってきた。当初は小さな子連れの母子避難、東京との二拠点居住だった。
子育てと生活、縁故のない土地でゼロから仕事と経済を再建しなくてはならない多忙な年月が続き、連載16の東京にいたときのように友人や同僚付き合いをする時間がなかった。
私ががんになっても、共に食事をし、気持ちを話し、おしゃべりをするような、対等に心を分かち合う女性の同世代の友人は京都には少ない。
40代、50代は、ちょうどそのような世代だということもある。
子育ては終わらず、共働きをして教育費も準備しなくてはならない、家のローンも終わらない、親も病になったり、逝去する時期でもある。
自分自身も更年期だったり、病したりする。仕事は責任のある立場だ。
自由な時間はほとんどない。
京都では、ひとりの人の背景にはコミュニティーやヒエラルキーが存在する。東京で1対1の平場な人間関係に慣れていた私が、団体やヒエラルキーの一番下に入れられて、相手の文脈で都合よく利用されるのは、こりごりだという目にも遭っていた。
属さない個。それが、京都での私のポジショナリティーだった。
地域社会の閉塞的で固定された人間関係の難しさから、異邦人、入り人と呼ばれるよそ者の私は、しがらみのない他者として話を聴くことができる。
関係の内側で苦しむ人たちには、私は安心して関われる他者だった。
編集者、ライター、教員という職業特性も、私が支援をする側の立場になってしまう理由だろう。東日本大震災原発事故避難の方たちと関われば、同じ立場であるにも関わらず、私は支援をすることを求められてしまう。
「純さんは強いから」
幾度となく言われたことばだった。
確かに東京で女性が働き、若いときから実家に頼らず生きて来ざるを得なければ、そうなる。
女性のなかでも、道なきところに専門職としてのキャリアを自力で積んできた方たちや、活動や事業を立ち上げて継続している女性たちは、個や社会のミッションに依って立ち続けていた。
出世のために男性社会の人脈、ヒエラルキーに入るのではなく、プライベートな場で市民、女性たちの緩やかなネットワークをつくる人たちは、私には心地がよい。
それでも、そのネットワークの内側に私は入らないのだが(私は無宗教、無党派、集団やイデオロギーによって固定されることを好まない単独者だ)、外側から関わることですっと助け舟を出してくれる女性たちはいた。
今回は、京都でお会いしたそんな女性たちのことを書く。
40代で弁護士になった浩子姐さんの情報ネットワーク
すらっと高い身長で、何枚持っているのかわからないほどの華麗な着物に身を包む京都の弁護士浩子姐さんは、一見とても怖い。
だから、姐さん、と呼ぶのがふさわしい。
この姿で「養育費払いや」と離婚調停をするんやろか。
主婦をしていたけれども、40代で独学で弁護士になったのは、慰安婦問題を知ったこと、友人が自分に在日コリアンであることを言わずに亡くなったことがきっかけだったという。
法律を盾に闘うことは、浩子姐さんにとっては、女性問題、マイノリティ問題、人権問題に向き合うことだった。
私は、以前彼女の本を企画し、編集している。
P病院で乳がんが診断されてから、私はセカンドオピニオンを求めるために取材を始めていた。
8月31日、私は京都で女性のネットワークを持っている浩子さんに、自分が乳がんになったこと、京都市内で乳がんを治療した方たちが、どこでどのような治療をしたか知りたいという連絡をした。
すると、多忙にも関わらず、9月3日に返事がきた。
京都府立医大、京都大学、ナグモクリニックで治療をしたという経験者の匿名の声を伝えてくださった。
・京都府立医大はがん拠点病院なので、安心感が大きい。患者会もあり、仕事や生活の相談がしやすい。
・京大病院はチーム医療となるので、医師の層が厚いのは安心できる。
・ナグモクリニックは、美容系なので、再建の胸の形にこだわってくれる。
美容外科のナグモクリニックは私には合わなさそうだという直観があった。再建のことより、がんを治療する、治すことが最優先だった。
結局、ともこさんの紹介で、KM病院のセカンドオピニオンに納得し転院、浩子さんが調べてくれた病院に行くことはなかった。
乳がんの術後、和装下着が役立つ
後日、右胸を全摘出したあとに、私は胸を押さえる前アキの和装の下着を思い付いた。
亡くなった父方の祖母が和装の人で、ベルトやさらしを胸に巻き、前アキの下着を着ていたことが、ふっと思い出されたのである。
祖母は、和装のベルトの間のポケットに札束を入れているような、素人さんではない姐さんだった(この話はこの連載の主旨ではないので、別の作品で)。私に覚悟と度胸があるとしたら、祖母譲りである。
いや、母方の祖父は在日コリアンで、16歳で単身海を渡ってきた人だった。
飯場を経営し、青龍刀が枕元に置いてあったというから、祖父も素人さんではないなあ。
私は、注意深く自分を隠して生きてきた。
それで舐めてかかって、地雷を踏む方はある。
私が『憲法と京都』(かもがわ出版)という本を書いたとき、とあるパーティーで出会った京都の男性の議員の方が、名乗らず声をかけてきた。
「あんた、ほんとは何もんや。その度胸」
その方はきっと色々な人を見てこられたのだろう。
私は黙って微笑んでいた。名乗らぬ人に私の素性を明かすことはあるまい。
私は、中高大と資本家や中産階級のお嬢さんが行くような私学で育ったため、「educated」な振る舞いをすることはできる。
高級女性雑誌の編集者やお嬢さん学校の教員もできるし、セレブな同級生たちとお付き合いすることもできる。ごきげんよう。
しかし、戦争の記憶を体内に抱いて、上野や浅草の地べたに座っている壊れた人間たちに、黙って聖徳太子の5千円を渡す祖母が私の原風景である。
50を過ぎて、私はだんだん自分の声と土地に還っていくように思う。
浩子姐さんは、どこかその度胸と情の深さが祖母に似ている。
在特会相手の裁判で原告をサポートし続け、ひるまず闘いきり、勝訴を勝ち取り、かつエレガント、そんなに闘っているのに涙を流すことができる。
私は、浩子姐さんに、
「自分は右胸を全切除して、乳房を再建するのではなく、両方を和装のときのように押さえることにした、胸を押さえる和装のブラ、さらしはどこで買えるのか。これから、下着は和装、外見は男ものシャツにGパンの男装で行きます。 髪も切っちゃうつもり」
と、相談の連絡をした。
「晒は、楽天で売っていますよ。私は、着物のとき晒は使わないのだけど、お姉さまに聞いたら、糸が30番手の太さが巻きいいみたいです。
すずろベルトという小物で胸を押さえています。わたしが使っているのは、普通の10cmくらいの幅のものですが、幅20cmのワイドという種類もあるようです。和装ブラは、たかはし着物工房のものがおすすめのようです」
それが姐さんからのお返事だった。
私はまだ腕が90度までしかあげられなかったので、まずさらしと和装ブラを購入した。
すずろベルトというのは胸を帯で抑えるもので、夏も涼しそうだ。
浩子さんにいただいた情報をもとに、ネット検索をしていると、さらしの肌襦袢を発見した。祖母が身に着けていたような下着だった。
和装ブラやさらしだけでは、肩もお腹も冷えてしまう。
私はそれをクリックで購入した。
私は今、和装ブラの上にさらしの肌襦袢を着て、ブレストバンドで傷を押さえ、シャツを着ている。
京大の患者会への問い合わせ
京都大学の乳腺外科には、2011年の311後の母子避難の頃、私と息子を連れて大原の道の駅にたびたび連れていってくれた女性の医師がいた。
私はP病院のがんの診断のあと、京大の乳腺外科を調べ、彼女を見つけた。
しかし、京大には紹介状が必要だった。京大ならがんを診断してくれたP病院から紹介状が得られるが、医師を変えることがセカンドオピニオンの目的ではなかった。
私が求めているのは、自分の治療方針、主に部分切除か全摘出かを共に考えて最適な見立てをしてくださるセカンドオピニオンだった。
私は、京大の患者会の方がお話会を実施されているという情報を得て、早速問い合わせのメールをお送りした。
お話会は、京大で乳がんを治療している方限定のため、参加をすることは叶わなかった。
しかし、メールの返事には、京都市立病院に、院内・院外関係なく参加できる乳がんのサロンがあるという情報、がん告知をされたばかりの私を慮ったアドバイス、納得して治療方針を決めることが大切ということ、どのように誰に相談をしたらよいかについてのアドバイス、「患者さんのための乳がん診療ガイドライン2023年度版」のリンクがつけられていた。
患者さんのための乳がん診療ガイドライン2023年版 | 最終更新日:
子育てやお仕事に忙しい合間に患者会を運営しているにも関わらず、丁寧なお返事をいただいた。
そこには、乳がんにり患した同性への、思いやりと具体的なアドバイス、メールでできる精一杯のサポ―トがあった。
遠くから、同じ立場の人に語りかける。
電子メールの向こうから、その人の声が立ち上がってくるようだった。
自分の経験を作品として編集できたら、今度は当事者へのインタビューの本を企画している。
今度は患者会への相談ではなく、乳がんを経験されている女性たちの話を聴くために、この方にご連絡をしたいと思う。
藍染屋のSさん
セカンドオピニオンでKM中央病院に転院が決まり、手術の日程が決まった9月半ば、私は藍染屋をしているSさんの店にうかがった。
時間をかけて丁寧に深く染められた藍染を仕立て、販売するのがSさんの仕事だ。Sさんの店の藍染の服は、なれるほどに色と布地が表情を得る。
私は、この8年ほど、彼女の作った服や小物を毎年1つは購入していた。
私には高価なものだが、10年、20年と使い続けられるものを自分のために購入できるのも、元気に働くことのできている今だけだという思いがあるからだ。雇われている限り任期があり、再び個人事業主に戻れば、また自分のものなど買えない日々になるだろう。
私は彼女の作ったものを、70歳、80歳まで使うつもりだったが、がんになって、いのちは有限であることを否応なしに実感せざるを得なかった。
いつか、いつかはない。
その日、Sさんのところに行ったのは、全切除した胸に藍染のさらしを巻きたい、藍染のかっこいい下着をデザインしてほしい、と思ったからだ。
私は、自分が乳がんになったこと、右胸を全切除するつもりであること、そうなったら、乳房を再建するのではなく押さえてバランスを取りたいという話をした。
「うちで扱っている布は硬いからさらしみたいに巻くのは向かへん。ダブルガーゼがええで。四条のノムラテーラーに色々あると思う」
Sさんはそう言って、実は自分も子宮がんを経験されていたことを話してくれた。
Sさんは45歳を前に初産を経験されたが、実は40代のはじめに、がんを経験されていた。
「ほんで、産みますか、産むなら子宮残しますけど、と言われてな。え、産めるんですか? ってことになってん。調べますか、ってなってな。まだ産めることがわかって、子宮残したんや」
Sさんは、子宮がんをきっかけに、出産をすることを決意した。
大騒ぎして動き回る可愛い息子さんのことを楽しそうに話してくれる。
「想像もつかなかった人生や」
がんは、確かに人生、生き方の価値観を見直すことを迫る。
人生を好転させることすらできる。
手術の傷を創造の創(きず)として、新しい人生を始めることすらできる。
私は、女性たちの強さをもっと聴き、書きたいと思った。
そこから生まれたのが、
「創(kizu) 癌、その後を生きる女たちの肖像(ポートレイト)」
という企画だ。
手術が終わり、退院した翌日の11月3日、私は散歩がてらSさんの店にうかがった。
切除した右胸と、センチネルリンパ節生検をした脇下と、右腕の神経が痛んだ。前アキのブラウスが必要だったのだ。
藍染に柿渋を重ねた素敵なブラウスがあったが、5万円だった。
入院手術で私にしては大金を使ったことを気遣い、Sさんはタイでデザインしたというシャツを勧めてくれた。7000円だった。
気持ちが明るくなる色とデザインだった。
秋の観光シーズン、店は観光客がいっぱいになった。
私が会計を済ませ、さっさと辞去しようとしたとき、Sさんが、
「手術がんばらはったから、どれか選んで。プレゼントしようと思ってたんや」
そう言って、藍染の小物入れを見せてくれた。
私はマチのあるひとつを選んだ。
このほかにも、東京の詩人、編集者、フェミニストの友人たちから、いくつもの贈り物をいただいた。このことはまた改めて。