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術後の韓国アカスリ「魔女になる日 さよならおっぱい」33

2024年12月31日 ケンチャナヨ


前日の術後初温泉がうまくいったため、年末最終日は恒例の韓国あかすりをしていただける京都市内の壬生温泉に出かけることにした。
(実は、前日温泉からあがっても体がしんしんと冷えていった。よく耐え続けた私の心と体はエネルギーが低下し、湯治場に逗留するくらいの長期休息を求めていた)

ここは、前日の不動温泉より大規模なスーパー銭湯で、不特定多数の方たちが湯舟に一緒に浸かることになる。
術後の入浴衣をまとった私に、視線をよこす方たちもいるが、私がそちらを向くと、ふっと目を逸らしてしまう。
入浴衣の右胸がぺったんこにえぐれていて、左胸には小さな丘があるのだから、おおよそおわかりになるだろう。

ジェットバスのお向かいで、ご高齢の女性が隣の女性に、
「なんや、あれ」
と訊いている。
耳がお悪いのか、声が大きい。
訊かれた女性は私の方を見て声をひそめ、
「なんやろね」
と言う。

「手術の傷を覆う入浴衣です」
江戸っ子の私は、はっきりと発音した。
「乳がんで右の胸、とっちゃったんです」
教員をしている私は、こういうとき、声が大きい。
周囲の女性たちも私をみて、うんうん、と頷いている。

まったく、こそこそしないで私に訊いたらいいのになあ、と思ったが、ここは京都である。

そうして40分もとっかえひっかえ様々な風呂に入っているうちに、12時に予約した垢すりのアジュマ(韓国語で中高年女性)が、風呂場に私を探しに来た。
私は手をあげて、
「私です!」
と言い、湯舟からあがって近づいていった。

「それなに?」
アジュマは、私の入浴衣を見て訊ねた。
さすが韓国のアジュマである。
思ったことをそのまま訊く。

「乳がん手術をして、右の胸がないんです。傷にびっくりさせるといけないから、これを着ているんです」
そういうと、
「ケンチャナ(大丈夫)、ケンチャナ。いいよ、そんなの脱いじゃって」
と言いながら、私の入浴衣の肩に触れた。

このアジュマ、昨年は私の背中の垢すりをしながら、
「筋肉がある。普通の主婦ではない。何かスポーツをしていたでしょう」
と言うので、
「女子プロレス」
と言ったら、
「さすがやね」と信じてしまった方である。
疑われなかったことに軽くショックを受けた私は、その日から筋トレ、ダイエットの目標設定をし、あすけんアプリをダウンロードし、半年後には10キロの減量を実現した。

今年のアジュマは、そんなことはすっかり忘れていて、
垢すりエステの部屋に入ると、
「ケンチャナ、ケンチャナ」
と、私の入浴衣を脱ぐのを手伝ってくれた。
日本人よりボディタッチが多いような気がするのは、気のせいだろうか。

エステの部屋にはもうひとりアジュマがいて、今日の担当はその方だった。
ふたりは、私の傷痕をしげしげと見つめ、
「ああ!」
と声をあげて、労わるような表情をした。
「まだ痛い?」
今日の私の担当をするアジュマが訊く。
「2か月前に乳がんで右の胸をとったんです。傷はくっついているけれど、まだ強くこすると痛いところがあるから、説明しますね」
私はそう言って、右の胸の傷の周辺と乳房のあった跡地、右腕下のセンチネルリンパ節生検をした傷痕、神経が痛む右腕の三か所を指さした。

私はすっぽんぽんにされ、エステ台に載らされ、子どものようにアジュマに体を洗い、こすってもらった。
「手術後、右腕があがらなかったから、強く体を洗えていないんです」
私がそういうと、
「ケンチャナ、ケンチャナ」
アジュマはいい、丁寧に体を洗ってくれた。

今年はプロレスラーに間違われなかった。
でも、「日本人?」と訊かれた。
「骨格がいいし、肌がきれいだから」

またそこか。
私は面白くなって、
「ハラボジが韓国人だった」
と、カミングアウトした。
すると、ふたりは急に親しくなって、韓国語で話しかけてくるのだが、残念ながら私の韓国語の勉強は妊娠出産で中断して、16年が経っていた。
やり残した仕事には、韓国のことがあった。いや、在日コリアンのことだ。

アジュマたちは、かつての同僚が膵臓ガンで亡くなったことを話してくれた。
私は、膵臓ガンの検査キットがインターネットで購入できることを伝えた。
私は彼女たちの健康保険はどのようになっているのか訊ね、加入していることを聞いて安堵した。
「私の祖父の頃は、特別永住外国人は社会保険の加入権がなかった。それで祖父はガンで死んでしまった」
「ネー」
アジュモニの嘆息が遠く響いた。

「おっぱいは再建しないの?」
「もういいかな。再建するなら、あと2回手術しなくてはならないから。おっぱいは役割を終えたの」
私がそういうと、
「若かったら、ちょっと違ったね」
アジュマはそう言った。

もし私が20代か30代の若い女性だったら、どのように「違った」だろう。
更年期となり、片乳房の魔女になった私は、性的に人を引き付けることもない。
私は、自分がセクシュアリティーからも自由になった50代の女であることに、安堵した。
私は自分のために、清潔な体でいればいい。

30分の垢すりで、1年間の疲れと汚れを落としきった。
私はさっぱりした気分になり、エステ室の外に出た。
鏡に写った自分の体を見て、入浴衣を着ていないことに気づいた。
横の女性の視線が、鏡に写った私の胸元を見ていた。

「ケンチャナ、ケンチャナ」
私はそう呟いて、タオルを肩からかけて右胸をタスキのように覆った。

再び入浴衣をかぶり体と髪を洗った私は、湯舟に浸かりながら女たちを見回した。
乳房があっても、それぞれの体は実に個性的だ。
それは「美しい」というのとは、また別のなごやかさ、にぎやかさだ。

大きな乳房をお腹まで下げたおばあちゃんもいれば、ぷっと膨らんだばかりの少女もいる。
湯舟のなかで、ふくよかな体のお母さんの胸に抱き着いている女の子。

私は、無くなった右の乳房を懸命に吸っていた赤ちゃんの息子の柔らかな髪を思い出していた。
それは何か、涙が零れそうな時間だった。
(それなのに、私は泣けない。乳がんになってから一度も、いや、東日本大震災からかもしれない)

「ケンチャナヨ」
私はまた独りごちた。

「墓場のような日常」


2時頃帰宅すると、1年間の「塵労」に疲弊して湯治に行った私とツレを見て、我が家の16歳の青年ぼんは「墓場のような日常だ」と言う。
その日はドストエフスキーを読んでいたようだ。語彙が深すぎる。

柔道で京都府ベスト8に入ったと自慢するツレは、
「闘うか」
と、空手をしていたぼんに挑んだ。
「腕相撲にしとく」
と、ツレは息子に労らわれ、息子との腕相撲に負けた。

「ひとつの時代が終わったのだ」
ツレがぼやいた。
55歳は16歳に負けた。
私のおっぱいも役割を終えた。

夜になって、エドガー・アラン・ポーの詩集を書棚から持ってきたぼんと、詩と翻訳や、トニ・モリスンのrememory(再記憶)の話をした。

紅白歌合戦では、イルカと南こうせつが、50年前と同じ姿で50年前の歌を歌っていた。
私の両親は「若かったあの頃、何も怖くなかった」のだろうか。
あれから半世紀が経った。
私は何も怖くはない。

私は、丁寧に向き合っていただいた傷口を、大事に隠して労わって、傷つくことすらできない。
爆撃の終わらない街で、いくつもの新しい傷から血を流し、化膿した傷が膿み、燃える体もあるというのに。

創にならない傷たちのために


それから、私とツレは、今年も除夜の鐘をつかせていただきに午前0時の法然院様に出向いた。
さやかな心の貫主の梶田和尚と向き合って、手を合わせあった。
心なしか、和尚がほほえまれたのは、何を思われたからだろう。

法然院の梵鐘


梵鐘の順番を待つ間、弁護士の尾藤先生にもお会いした。毎年のことだ。
私が退院した翌日、バス停でお会いして、入院手術についてお話をした。
お互い、体を労わりあって、挨拶を交わした。
尾藤先生の後ろには、生存権、人間の尊厳を求めて闘う方たちがたくさんいらっしゃる。
尾藤先生は防波堤のように、その人たちの前に立っていた。
もしかしたら、尾藤先生がその人たちの背中を支えていたのかもしれなかった。

「自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる」ことを願った、宮澤賢治の妹のことばのように、私は自分のことを悲しむことができない。
自分のことばかりで苦しむことを、きっと煩悩というのだろう。

深く、治らない、治せない傷が世界に溢れている。
奪われることが多すぎる。
それでも、私自身の経験について深く思考すること、深い水脈は必ず他者とつながっていく。

私には信仰がない。イデオロギーもない。
詩はある。
祈りはあった。

*サムネイル写真は、元日に白川で出会ったシラサギ

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