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社会適合者のハードルが高すぎる【エッセイ】

「社会適合者」と聞くと、どこか完璧なイメージが浮かぶ。

仕事ができて、礼儀正しく、気遣いもできて、どんな場面でも無難にこなしていく人。
ちょっとしたトラブルにも冷静に対処し、周りからの評価も高い。

そんな理想的な人をイメージしながら、自分の足元を見ると、途端に肩が重くなる。

私は、社会適合者ではない。

いや、正確には「社会適合者になりたい」と思っているけれど、そのハードルの高さに時々うんざりする。

電車で席を譲るタイミングを迷って、結局譲れないことがある。
飲み会の乾杯の声が出遅れて、なんとなく恥ずかしい思いをする。

上司に言われたことを、内心「そんなの無理だ」と思いつつも「はい」と返事してしまう。

些細なことばかりだけど、積もり積もって、「自分は適合できていない」という感覚が重くのしかかる。

たまに、自由に行動している同僚に対して、他の同僚が「社不だから…」って言って、めちゃくちゃ驚いたし怖かった。

でも、社会適合者の基準が高すぎる、と感じる。

礼儀正しさ、コミュニケーション能力、仕事の効率、健康管理、家族サービス…。

まるでチェックリストのように求められるものが多すぎて、それを全部クリアしようと思ったら、いつの間にか自分の輪郭がぼやける気がする。

「社会適合者にならなければ」と思うたび、心の中にある小さな自分が言う。

「なんでそんなに頑張るの?」

答えは簡単。
「そうしなければ、取り残される気がするから」。

孤独が怖いわけではない。

むしろ、私は一人の時間が好きだ。
静かなカフェで本を読む時間や、夜更けに書き物をする時間は、何よりの癒し。

でも、孤立は怖い。

自分が周りと噛み合わなくなって、気づけば誰もいない状況。
それを想像すると、足元がすくむような感覚に襲われる。

適合しなければ、孤立する。

そんな恐怖が、私を社会適合者の仮面に向かわせる。

でも、その仮面をずっと被り続けることは、とても疲れる。

誰かと一緒にいるのに、ずっと一人でいるような気がする。
笑顔の裏で、「本当の自分」を押し込める感覚。
それが少しずつ、心を蝕んでいく。

だから最近、考え始めた。


「社会適合者って、そもそも何なんだろう?」


完璧な人間なんていない。

みんな何かしら欠けた部分を抱えながら、それでも社会に適応しようともがいている。

じゃあ、「適合」とは、すべての基準をクリアすることではなく、自分なりのやり方で折り合いをつけていくことなのかもしれない。

それに気づいた時、少しだけ肩の力が抜けた。

社会適合者のハードルは確かに高い。
でも、その高さを自分なりに超える方法は、案外自由でいいのではないか。

たとえば、無理に笑顔を作るのではなく、少し黙って相手の話を聞くこと。完璧な答えを出せなくても、「今は分かりません」と正直に言うこと。

席を譲るタイミングを逃しても、次はもう少し早めに行動しようと思うこと。

そうやって、小さな違和感や失敗を受け入れながら、少しずつ自分なりの適合を見つけていけばいい。

社会適合者のハードルが高いのは事実だ。

でも、その高さに苦しむ必要はない。
むしろ、自分なりの歩幅で進んでいけば、それで十分なのかもしれない。

そしていつか、自分にとっての「適合」が、無理のない自然な形になる日が来ると信じている。


社会の中で、ちょっと不器用でも、(もしかすると不器用どころではないけど…)ちゃんと「自分」として存在できる。
それが、本当の意味での社会適合者なのかもしれないと思うことができた。

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飛鳥井はる
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